多賀町落合の「もみじ蔵」からは、ほんと、驚くばかりのものが出てきました。
その一つが「お多賀杓子」です。白黒写真でしか見た事がありませんでした。 その後 木地師の歴史を調べてみると 林業遺産に認定された東近江の氏子狩りをした木地師とは違う動きを 多賀以北ではしていた事が ぼやっとながらわかってきました。大君ケ畑のみならず、佐目氏がガッツリかかわっていたのには驚きました。 多賀杓子は、独身で即位された初めての女性天皇である元正天皇(在位715-724)の御病気を治したといういわれがあります。木地師の祖と言われる惟喬親王の12代前の天皇です。 多賀大社関係者が、惟喬親王=木地師とかかわっていたのをどこかで読んだ記憶があるのですが、全然 見つからず。 ところが、明治維新以前、多賀大社(当時は多賀神社)の摂社、以前は大社内にもあった 野田山の山田神社という 延期式にものっている由緒ある神社の神主を世襲されていた「大賀氏」の直系が途絶えたと聞き、調べてみると「ビンゴ!」でした。 多賀大社 大神主は犬上氏・山田神主 大賀氏・日向神主が大岡氏で 三神主が世襲で守ってこられたのを、神仏分離、廃仏毀釈の日吉大社のお膝元 多賀大社では世襲が許されず、飛ばされてしまわれました。ひどい話です。 で、この大賀氏の家系図に 平家であり 惟喬親王が 近江国越知郡大君畑におられた時「桐葉檜扇」の家紋を賜ったとあります。 んー どっちやねん(笑) 越知郡ならば 君ヶ畑、大君畑なら多賀町。 それはさておき、惟喬親王から頂かれた事も この際 真意はどうでもいいのですが、多賀大社の神主が惟喬親王と関係があるという事をPRする必要があったという事が、とても重要になります。野田山は、以前山田と言い、多賀大社の神領で坊人屋敷も多くあったと書いています。山田神社の祭神は「猿田彦命」 坊人は、甲賀が活動拠点であり、東近江の木地師も、実は佐目氏も佐々木六角氏の息がかかっています。多賀大社を牛耳り、坊人を束ねていた「不動院」の最初の住職も日野家末子と言いつつ、実は永源寺で生まれ育ち、その後2代は小椋姓です。 更に、多賀大社には多くの古い能面があり、お椀などの生活用具をつくる木地師と、用具と祈りを兼ねた「多賀杓子」の杓子師と、祈りと芸能の「面」をつくる面打ち師が、どんな風に活動していたのか はてさて、パズルを解くには もう少しピースが必要ですが、たった1つの「昔の多賀杓子」の発見から 色々な歴史がつながってきて、これからが楽しみです。 因みに、「多賀杓子」は 祈祷もしていた坊人が焼印を押す事で 祈りの多賀杓子になります。ハンコが押していないと ただの杓子かと・・・たぶん。 ちなみに、「オタマジャクシ」だけでなく「杓子定規」の語源も「多賀杓子」だという記事です。 https://rakugo-fan.at.webry.info/201708/article_2.html |