ちゃっちゃと片付かない! 短冊がいっぱい出てきたので ちっちゃとまとめてしまおうと思ったのですが、いざ 今までの出土品から関連するものをピックアップしはじめたら、思いの他 多い事に気が付きました。欲張らずに少しずつ ご紹介したいと思います。 三銀蔵を片づけ始めた頃は、当家の歴史も知らず「物」として見ていましたが、歴史的な背景がわかってくると、あっちの物とこっちの物が関係していて、何なのかわからなかった物の「答え」が相互に見えてきて、リアルな背景が浮かび上がる事があります。 まず大量の細工した板が出てきました。よく見てみると、そのうちの何枚かには焼印が押しています。 表には、「多賀大社」「竣功祭」とあり、裏には「多賀大社御造営餘材」とあります。 「御造営」というのは昭和八年に完成した昭和の大造営だと思われます。「餘材」というのは余った材木の事です。 紐が通してあり、大きさ形状から、短歌などを書いた短冊を飾る「短冊掛け」だろうと推測出来ました。 すると、違うところから 焼印が出てきて よく見ると「短冊掛け」の焼印でした。 右の丸いものは「御本殿 餘材」とあります。もし、これが押してある木が見つかったら お宝にするぞぉ!と探してみましたが残念ながらありませんでした(笑) これらから推測できる事は、大勢の方々に短歌や俳句、川柳などを書いてもらって、展示したりする事を「坊人(多賀講理事)」が主体的に関わっていたという事です。
多賀大社は、延命長寿で有名な神様ですが、始まりは日本の女帝としては五人目、独身で即位した初めての女性天皇である元正天皇(げんしょうてんのう/六八〇年 - 七四八年)の御病気が治癒したという多賀杓子・飯盛木の伝承に由来します。 自身の努力や人の力でどうしようもない時に必要とするのが「神の存在」であるとするなれば、お多賀さんの森で育った木や、建築に使われた同じ木の小さな一片であったとしても、ご利益にすがりたいと思うのは必然であると思うのですが、昨今、森林保全の為に伐採された多賀の社に育った丸太や枝の行方やその後の活用が如何様にと勿体なく思っていた所に、この「短冊掛け」をみつけ、神と信者をつなぐ役目を坊人が担ってきたのだと知りました。つづく。 |