ここを蔵を片づけはじめて、何が驚いたかというと、 ・ご先祖は神主ではなく坊さんだった事 ・多賀ではなく、甲賀の小佐治出身だった事 ・「三木」ではなく、血筋としては「岩田」だった事 でした。 (私からは、母方の実家の本家の本家という感じでしょうか) ついこの間まで何の関係もないと見逃していた事が 次々関係があるとわかり、やっと完成まじかになったと思っていた「三銀蔵の報告書」の書き換えや追加を余儀され、この分では当分かかりそうと諦め、ブログやHPに手をつけはじめました。 何かわかった時に 控えておかないと忘れるので メモ代わりでもあります。 明治20年に、この図を編集したのが、ご先祖の岩田家の跡継ぎ 岩田真造(真蔵)です。江戸時代、明治維新前後、多賀大社を仕切っていた「不動院付き」の坊人の惣代 岩田秀久(私からは4代前の真行の兄)の息子で、神仏習合が廃止され、右往左往の後、神主として多賀神社に勤めていましたが、少なくとも室町時代より存在した 多賀参詣曼荼羅 のようなPR用のあれやこれやは やはり坊人(もう、その時は坊人とは言われていません)が 作っていたのだとわかりました。
しかし、国会図書館のデータにある明治22年の同様の多賀神社全図には、編集人などの情報は載っていません。 次のブログに、左上にある 句について 書きたいと思います。 これは、三銀蔵から出てきた古文書です。 古文書なんて言うのは申し訳けない位で、食器を包んだり、コヨリをつくる為に乱雑に保管されていました。 明治なので、曽祖父 淇内の代のものです。 明治維新で神仏分離令が出るまでは、多賀大社を仕切っていた不動院やその配下の観音院、般若院それぞれに所属する坊人が、日本各地の多賀講の方を宿泊所でもあった各坊にご案内して、祈祷や食事、布団などのお世話をしていました。 伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り と、いう素晴らしい洗脳系コピーライトを流布して、勧誘していました。 しかしながら、毎年、皆さんに起こし頂くのは、金銭的にも時間的にも大変です。そこで、講をつくり、皆で資金を貯蓄して、代表を都度決めて、行けない人の分もお詣りするという代参システムが出来上がりました。 明治38年の左の資料を見ると、三重県志摩の答志島で作られた和具講48人の代参として、4名の方がお多賀さんにお詣り下さった時の収支の一部です。まだ、この頃は、各坊人が担当している講の皆さんの名簿は、門外不出、多賀大社側(神職)では把握出来ませんでした。講の皆さんがいらした時の祈祷も、坊人がしていたみたいです。明治政府が決めた神主の資格はないけれど、講の皆さんにとっては江戸時代より、多賀信仰を導く存在でした。御札を配るだけの仕事ではなかったのでした。 右側は、献立でしょうか。山芋、豆腐等々。こんな事まで、細かく関与していたとは驚きです。ツアーコンダクター以上です。 どうも煮物は、かぎ楼さんに頼んでいたようです。 古文書が読めるようになって、当時の食事が復元できれば、多賀観光も面白くなるのになぁと妄想してしまいました。 何せ、お椀を包んでいた和紙なので半分に切ってあり、日時も不明です。
上の資料を見ると、この時はかめやさんに宿泊して頂いたようで、女中祝儀、饅頭、彦根への電話料、電信料、門前道人力とあります。 電話という事は明治32年以降の書類のようです。少し前の多賀大社の絵図にちょうど門前の通りを行き交う人力車が描いていましたので、何れご紹介したいと思います。 物知りなバーのマスターによると、多賀詣りの後には、彦根の歓楽街だった袋町に寄られる事もあったようで、彦根への電話は、そんな所なのかなぁと思ったりしました。祖父が袋町のきれいなお姉さんと写った写真も、たぶん、多賀講の方をご案内していたからなのかもしれません。 仕事!だったのね。じいちゃん。うたがってゴメン(という事にしておいてあげようっと) やっと、三銀蔵から出して調べていた物の写真を撮って、古文書や資料以外の物を再び三銀蔵に戻しました。これから、目録づくりと蔵に戻した物のナンバリング、タグづけに取り掛かりながら、報告書の完成(現在、B5サイズで250ページ位)を目指します。 先行して、親族や多賀大社、関係者向け概略版の小冊子を作製しました。又、ご紹介したいと思います。 さて、今回は、もしかしたらと妄想していた事が家系図を作ったり、昔の資料と戦うなかで「確信」に変わりつつある事をご紹介したいと思います。 一族のお墓は、知ってる人しか行けないような天台山と言われる小高い山の中にあり(お堂は信長に焼かれたらしいので、戦国時代からいたのかもしれません)ご先祖には「権大僧都 大越家 阿闍梨」という修験僧や山伏にとっての最高の階位がついていました。坊人のルーツは修験僧・山伏だと言えます。
更に、伴侶の出身地をみると隠岐の隠岐氏の娘(私にとってはひいひいばあさん)だったりして、やはり殆どが甲賀忍者と関係が深い家でした。私たちがイメージしている忍者の恰好なんて普段していたら、隠密・諜報活動なんて出来ないので、普段は山伏などの恰好をして・・・と書いているものもありますが、実際に山伏であり、しかも多賀大社の坊人として、大きな顔をして各領地に入り、大名の武運を祈る「牛黄宝印」を敵味方どちらの陣地にも届けられるというスペシャルな役回りだったようです。 甲賀市 薬業の歴史 には、甲賀売薬の起源は、①薬僧から出たとする説、②甲賀忍者の発明とする説の二説が伝えられているとありますが、三銀蔵から出てきた古文書には、薬草の配合などが書かれているものがあり、又、親戚には明治維新以降、売薬業に転身した家もあったり、ある坊人の家からはシュリケンもあったらしいので、二説ではなく『坊人』という職をもう少し深く探れば、今までの仮説のなぞが解ける事もあるのではと感じるようになりました。 例えば、近江から全国に広がったと言えば、木地師と近江商人がいます。どちらも坊人の活躍、その前の多賀信仰の全国展開より新しいのです。 木地師が作っていたルーツの製品の一つに「杓子」があります。多賀杓子は、おたまじゃくしの語源にもなるほど有名な多賀大社のお土産ですが、杓子は元は修験僧が山で修験中に作ったものを持ち帰り配ったのが「お土産」のルーツだと言われていて、道具だけでなく信仰に関係するものとして職能として認定されないと作れなかったそうです。 ひいひいじいさんは、江戸時代、京都の糸へん(近江出身)に勤めてから坊人になっていたり、大叔父は逆に伊藤忠商店に勤めたりしています。伊藤家の男子の跡継ぎがいても、娘に婿養子を迎えるという店の安定・躍進をはかるシステムも、それ以前に坊人の当家でも ガンガン行われていた節がありました。もちろん、全国展開という点でも坊人の方が先輩です。 本日は、ここまでとしますが、近江の歴史を紐とく時に「坊人」という存在を加味すると、又 違った発想が生まれてくるんじゃないかなぁ…と思い始めています。 そう考えると、明智光秀が情報を得やすい多賀(鈴鹿山脈)にいたというのも、まんざらでもない気さえしてしまいます。 |