多賀町落合の「もみじ蔵」からは、ほんと、驚くばかりのものが出てきました。
その一つが「お多賀杓子」です。白黒写真でしか見た事がありませんでした。 その後 木地師の歴史を調べてみると 林業遺産に認定された東近江の氏子狩りをした木地師とは違う動きを 多賀以北ではしていた事が ぼやっとながらわかってきました。大君ケ畑のみならず、佐目氏がガッツリかかわっていたのには驚きました。 多賀杓子は、独身で即位された初めての女性天皇である元正天皇(在位715-724)の御病気を治したといういわれがあります。木地師の祖と言われる惟喬親王の12代前の天皇です。 多賀大社関係者が、惟喬親王=木地師とかかわっていたのをどこかで読んだ記憶があるのですが、全然 見つからず。 ところが、明治維新以前、多賀大社(当時は多賀神社)の摂社、以前は大社内にもあった 野田山の山田神社という 延期式にものっている由緒ある神社の神主を世襲されていた「大賀氏」の直系が途絶えたと聞き、調べてみると「ビンゴ!」でした。 多賀大社 大神主は犬上氏・山田神主 大賀氏・日向神主が大岡氏で 三神主が世襲で守ってこられたのを、神仏分離、廃仏毀釈の日吉大社のお膝元 多賀大社では世襲が許されず、飛ばされてしまわれました。ひどい話です。 で、この大賀氏の家系図に 平家であり 惟喬親王が 近江国越知郡大君畑におられた時「桐葉檜扇」の家紋を賜ったとあります。 んー どっちやねん(笑) 越知郡ならば 君ヶ畑、大君畑なら多賀町。 それはさておき、惟喬親王から頂かれた事も この際 真意はどうでもいいのですが、多賀大社の神主が惟喬親王と関係があるという事をPRする必要があったという事が、とても重要になります。野田山は、以前山田と言い、多賀大社の神領で坊人屋敷も多くあったと書いています。山田神社の祭神は「猿田彦命」 坊人は、甲賀が活動拠点であり、東近江の木地師も、実は佐目氏も佐々木六角氏の息がかかっています。多賀大社を牛耳り、坊人を束ねていた「不動院」の最初の住職も日野家末子と言いつつ、実は永源寺で生まれ育ち、その後2代は小椋姓です。 更に、多賀大社には多くの古い能面があり、お椀などの生活用具をつくる木地師と、用具と祈りを兼ねた「多賀杓子」の杓子師と、祈りと芸能の「面」をつくる面打ち師が、どんな風に活動していたのか はてさて、パズルを解くには もう少しピースが必要ですが、たった1つの「昔の多賀杓子」の発見から 色々な歴史がつながってきて、これからが楽しみです。 因みに、「多賀杓子」は 祈祷もしていた坊人が焼印を押す事で 祈りの多賀杓子になります。ハンコが押していないと ただの杓子かと・・・たぶん。 ちなみに、「オタマジャクシ」だけでなく「杓子定規」の語源も「多賀杓子」だという記事です。 https://rakugo-fan.at.webry.info/201708/article_2.html 多賀大社が由来に大きくかかわっていたなんて・・・ 三銀蔵を調べていると、坊人(ぼうにん)について書いている各時代の文献や書いている人の立場により、フィルターがかかっている事に気が付きました。 「定説を疑って、もう一歩深く見てみる」事の大切さが身にしみました。 ウィキペディア(Wikipedia)だって、まるっぽ信じきってはいけなかったりね。大助かりだけど。 それによると「宇多天皇の時代(867年-931年)、鞍馬山の僧正が谷と美曽路池(深泥池)の端にある石穴から鬼が出て来て都を荒らすのを祈祷し、鬼の穴を封じて三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたとする由来伝説」があったという。 追儺(ついな)という中国から伝わった宮中の年中行事で、平安時代(794~)の初期頃から行われている鬼払いの儀式がベースだと書いてある。 その追儺という行事が 金色の目4つもった面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯をもった方相氏(鬼を払う役目)が大内裏を回るとき、公卿は清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して援護としての弓をひき、殿上人(でんじょうびと)らは振り鼓(でんでん太鼓)をふって厄を払ったとあり、更に『法史瑣談』 では「右手に持てる戈を以て左手の楯を打つこと三回、親王以下の群臣は、これに和して桃の弓、葦の矢、桃の杖を以て疫鬼を宮門の外に追ひ出すのである」とある。 ここまでは、史実だと思われる。 そして、更に遡ると、日本最古の歴史書である『古事記』(712年太安万侶編纂)に ルーツらしきものが登場する。 多賀大社の御祭神である伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)のちょっと怖いけれど、ガンチクのある物語の一説。もちろん、神様の話なので史実ではないけれど、きっと、昔の出来事を例えたり、ちよっと権威付け(にしては、素朴だけど)する為に書かれたのだろうと、私は思っていますの。 古事記の桃 そして、伊邪那岐はその桃に 「私を助けてくれたように、人民が苦しいときには助けてくれ」と言い、意富加牟豆美命(オオカムズミノミコト)という名前を与えました。 桃の霊力を豆に 実際に、桃の種は 桃仁と言い、現在も漢方の生薬として利用されていて 特に婦人科系の症状に効くと言われています。東京生薬協会のサイト 2010年桜井市の纒向(まきむく)遺跡で大量の梅の種が出土し、2018年 放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、西暦135~230年とみられることがわかったそうです。卑弥呼の時代ですね。 本当に、中国の行事をまねたのか ちょっと 疑ってみてもいい気がしてくる程です。 豆=桃のルーツは、伊邪那岐命=多賀大社 出典は、どこだか不明ですが 神社の節分の祝詞に「桃の霊力を豆に移す」というのがあるそうで、豆まきのルーツは貴船神社だと言われてはいますが、「豆=桃」のルーツは 伊邪那岐命であり 御祭神としてお祀りしている 多賀大社で いいんじゃないの!! と 思った次第です。 ならば、本家本元の多賀大社で豆を買う 明治政府の神社における加持祈祷・占い等の禁止以降、「桃の霊力を豆に移す」というような祝詞が使えたかどうかは不明で、厄除けの豆まき・節分祭が行えたのは戦後なのだそうですが、販売している「豆」は ちゃんと祈祷しているとの事。 スーパーで買う豆は どうなんだろう・・・と ちょっと ?マークがついてしまいましたが、2019年2月3日は ちょうど日曜日。 せっかくなので、多賀大社の節分祭でゲットしに行こうかなと思っているところです。多賀大社 節分祭はこちらを 三木家にあった「桃の木」
母の実家には、以前 桃の木があったそうで 多賀祭りの時には 神事に使うという事で多賀大社から枝を取りにいらしたそうです。実家は、元々 江戸時代より多賀大社の神主をされていた 車戸家の畑でした。 桃が 神事に使われていた事は確かなようです。 もう、これだけで 多賀絵馬通りのお宝です。 更に、見せて頂いたものに 狂喜乱舞しました。 多賀神社御命名 延(上に++) 滋養 名果 柏壽 多賀?大谷保壽堂? 看板の裏表が同じで、吊る為の金具があります。 更に、お菓子の由縁などがありました。 明治のはじめには、多賀の土産のお菓子に寿命餅というのがあり、これは明治屋の神鳥さんが作っておられ、その後東京に移転されたと多賀町史にあったので聞いて見ると、大谷家にどの代かわからないが、神鳥家からご養子に入られた方があるそうで、その明治屋さんは親戚なのだとか。
今のクラブヘヤータガの場所が明治屋さんのお家だったそうです。 母に聞くと、戦時中にそこに東京から疎開されてきた神鳥さんという同級生がいるとの事。少しずつ、つながりますね。 多賀の神鳥家の歴史は古く、お多賀杓子にもかかわる「膳部」という多賀大社にはなくてはならない一族でした。この話は、又 いずれ。 三銀蔵の事を調べていると、色々な事がつながってきて、地域の歴史や文化が詳らかになってきます。探しにいくのではなく、良い意味で気持ち悪い位に、導かれている感じに近く「参ったなぁ出てきてしまった・・・(キャーうれしい)」という感じでしょうか。 最近では、以下の5つ。 もちろん、それとは別に「三銀蔵 Family History 報告書」も進めていますが、全部リンクするので、加筆修正が必要になってきています。
3. 江戸時代の多賀杓子 歴史的大発見! 坊人の子孫としては、世紀の大発見!といえる江戸時代の「多賀杓子」の原型が、なんと上記のもみじ蔵から出てきました。この「多賀杓子」にまつわる面白い話はいっぱいありますので、いづれご紹介します。
もうすぐ終戦記念日なので、三銀蔵と戦争について書きたいと思います。 私の近い親族に戦地に行った人がいないのと、両親も終戦の時に8、9 才で、正直、戦争は他人事でした。いけない事だというのはわかっていますし、もちろん反対ですが、戦争に関する情報を得ても、リアリティがなくて表面的な感想しか持てませんでしたし、体験していない事に共感できる感受性も持ち合わせていませんでした。 しかしながら、やはり出てきた物から三銀蔵の歴史や文化をつまびらかにするには、避けて通れないので、現在 執筆中の三銀蔵の「報告書」から 淡々と抜粋したいと思います。 三銀蔵から出てきた、戦争関係の写真はこちらに(一部です) 3-gin.net/17-01.html 銀治郎の長男・真太郎は、彦根中学( 現彦根東高校) を卒業して、神職を継ぐべく国学院大学に行っています。三銀蔵から出てきた真太郎の戦前と戦後に読んでいた本からは文学青年だったとわかり、何冊かの哲学書もあり、私が知っている飄々とした感じの真太郎らしいなと思える物でした。 しかし、実際に真太郎が戦地に着て行った軍服等が一式出てきて、捨てられずいた事、戦争後に真太郎が買った本からは「一体、この戦争は何だったか」という事を探そうとしていたのではと思える事、多賀町の戦後50 年の記念誌に戦地での出来事を寄稿した時の何度も書き直ししている原稿など、実際の物に触れるてみると、言葉には出来ませんが、とても重い物が身体に残りました。 マラリアにかかったそうで、帰ってきてから数年たっても、時々 とても寒がったそうです。よく、生きて帰ってきたなぁと思いました。実際に、銃弾で亡くなった人より、病気や飢餓で亡くなった方の方がずっと多いそうです。 ●真太郎くんの反抗。やるなぁ。 まず、戦況がひどくなる前の状況です。 国学院大学の予科から大学部に進んだ真太郎は、大学生の徴集延期や徴兵検査の結果で、しばらくは戦争に行かずに済みました。先のブログにも書きましたが、今でいう高校生の時に病気で休学していますので、身体が強い訳ではなかったようです。 履歴書を見ると、昭和16 年2 月大学中退とあり、卒業目前にどうして?と思い、調べると当時は繰り上げ卒業などもあった事がわかりました。 しかし、その事をしげ子に話すと、なんと父・銀治郎に内緒で新聞社で働いていたそうです。蔵書からイメージしていた青年・真太郎らしい行動に思わず笑ってしまいました。大学で歴史や文学に触れると、当時の世の中に疑問を持つのは当たり前です。のんのんと、大学なんぞに通っていられなかったのかもしれません。卒業をしようと思えば、出来なくはなかったかもしれませんが、「途中退学」と後々の履歴に堂々と書く事は、真太郎にとって密かな意味があったように感じられます。 とは言うものの、当時の世相だと、坊人を次につなげる為に、三木家に婿養子に入った銀治郎の立場を思うと、その驚きたるや如何ほどかと、気の毒になる位です。 2 月に退学届けを出し、直後の3 月真太郎24 才の時に熱田神宮に勤めています。 大学生ではなくなった真太郎は、再び徴兵検査を受け「現役適合ではあるけれど、選ばれる確率が低い」第二乙種に編入されます。 しかし、昭和16 年12 月8 日に真珠湾攻撃があり、1 ヶ月後には軍隊の基礎を学ぶ「教育招集」に約3 ヶ月行き、同年の昭和17 年9 月25才の時に戦争に招集されました。写真(左)は、その間に熱田神宮で撮ったものです。
●.進むも死、退くも死
真太郎が入った部隊は滋賀と京都中心の「嵐部隊」つまり、突撃隊として編成されたようです。 昭和17 年(1942 年)10 月末、京都から広島の呉港に行き、船で上海に向けて出港しました。上海で到着した地点を三銀蔵にあった上海の古地図で見てみると、共同租界の日本の会社が多くある地域の倉庫でした。待機して後、揚子江を遡上して安慶に上陸し、更に中隊がある場所に船で移動しています。 11 月末に中隊に合流し、1 ヶ月、機関銃や馬術の訓練をして、12 月23 日大別山作戦の為、対岸望口に上陸します。翌24 日、「初めて銃砲声を聞き、異様な緊張に包まれる」とあります。 二ヶ月前は素人だった事を思うと、いきなり本番はキツイですよね。 その後もかなり遠い各地で戦闘に参加しているので、真太郎の移動距離やどんな行動をしていたのか調べようとしましたが、かなり手間がかかりそうなので、今回は割愛します。 昭和18 年の1 月末~ 9 月までの半年以上は、予測される大戦に備え訓練をしたとあり、その時にマラリアにかかったとわかりました。 この後の最後の戦いとなる芷江作戦では、戦死が695 人、戦傷死が322 人、戦病死が2184 人、合計3201 人の方が亡くなっていますが、約7 割が病死だというのに驚きました。餓死も含まれると思います。そんな中で、マラリアにかかると殆どの方が亡くなったと書いてあるものもあったのですが、真太郎は丁度、基地にいる時だったようで、栄養も看護体制も整っていた環境で早期に治療出来たので助かったのだと思います。 何型のマラリアかにより違うそうですが40 度近い高熱が2 ~ 3 日おきに繰り返し、数年にわたり潜伏する事もあるそうで、戦地から帰ってきて数年たっても、時々、極度に寒がり震えていたのも後遺症だったと思われます。 台風がやってくるというので、友人が富士登山を中止しました。 骨折後の腕試し(足試し)が伸びたので、もう少し養生しないという事かもしれません。そこで、思い出したのが、三銀蔵からバラバラに出てきた物から、見えてきた一つの「父と息子」の物語でした。 父・銀次郎・明治22年生れ、息子 真太郎 大正6年生れです。 最初に出てきたのは、登山の時の写真です。昭和8年7月です。 今度は、はがきが出てきました。 それで、あれっ?と気が付き、真太郎の履歴を調べてみると、15歳 彦根中学(現・彦根東高校)の時に心筋炎にかかかり、昭和7年10月から休学をしていたとわかりました。
富士登山は、翌年 昭和8年の7月です。どれ位 休学していたかわかりませんが、息子を富士登山に連れて行き、自信を持たせ、元気になった事を知らせる父親の親心にふれた気がしました。 更に、ただの観光土産だと思い最後まで放置していたものですが、よく見ると 「富士登山」 裏には 「昭和8年7月 父息子二人」と書いていました。 本当に、うれしかったのだと思います。 ちゃっちゃと片付かない! 短冊がいっぱい出てきたので ちっちゃとまとめてしまおうと思ったのですが、いざ 今までの出土品から関連するものをピックアップしはじめたら、思いの他 多い事に気が付きました。欲張らずに少しずつ ご紹介したいと思います。 三銀蔵を片づけ始めた頃は、当家の歴史も知らず「物」として見ていましたが、歴史的な背景がわかってくると、あっちの物とこっちの物が関係していて、何なのかわからなかった物の「答え」が相互に見えてきて、リアルな背景が浮かび上がる事があります。 まず大量の細工した板が出てきました。よく見てみると、そのうちの何枚かには焼印が押しています。 表には、「多賀大社」「竣功祭」とあり、裏には「多賀大社御造営餘材」とあります。 「御造営」というのは昭和八年に完成した昭和の大造営だと思われます。「餘材」というのは余った材木の事です。 紐が通してあり、大きさ形状から、短歌などを書いた短冊を飾る「短冊掛け」だろうと推測出来ました。 すると、違うところから 焼印が出てきて よく見ると「短冊掛け」の焼印でした。 右の丸いものは「御本殿 餘材」とあります。もし、これが押してある木が見つかったら お宝にするぞぉ!と探してみましたが残念ながらありませんでした(笑) これらから推測できる事は、大勢の方々に短歌や俳句、川柳などを書いてもらって、展示したりする事を「坊人(多賀講理事)」が主体的に関わっていたという事です。
多賀大社は、延命長寿で有名な神様ですが、始まりは日本の女帝としては五人目、独身で即位した初めての女性天皇である元正天皇(げんしょうてんのう/六八〇年 - 七四八年)の御病気が治癒したという多賀杓子・飯盛木の伝承に由来します。 自身の努力や人の力でどうしようもない時に必要とするのが「神の存在」であるとするなれば、お多賀さんの森で育った木や、建築に使われた同じ木の小さな一片であったとしても、ご利益にすがりたいと思うのは必然であると思うのですが、昨今、森林保全の為に伐採された多賀の社に育った丸太や枝の行方やその後の活用が如何様にと勿体なく思っていた所に、この「短冊掛け」をみつけ、神と信者をつなぐ役目を坊人が担ってきたのだと知りました。つづく。 今年も、もうすぐ多賀大社の万灯祭です。
又、近江多賀 神あかりのイベントも前夜に行われます。 と、いう事で 以下に各イベントの紹介とリンクと共に 三銀蔵も 勝手にwebコラボという事で 蔵から出てきた あかりや提灯をご紹介したいと思います。 多賀大社のホームページより -------------------------------------------- 多賀大社万灯祭(まんとうさい) 8月3日~5日 8月3日の薄暮、杉坂山(ご祭神降臨の地)で御神火祭が行われ、浄火が古式により切り出されます。麓の調宮(ととのみや)神社を経てご本社に運ばれると、1万灯を超える提灯に明かりが灯されます。 伊邪那岐(いざなぎ) 伊邪那美(いざなみ)の大神様は、数々の尊いご神蹟をあらわされたのち、女神さまは黄泉の国(死後の世界)の大神となられました。万灯祭は私共の祖先の御霊をお護りくださる女神様に感謝を捧げるお祭りで、湖国の夏の風物詩としても有名です。 ---------------------------------------------- 「近江多賀 神あかりキックオフ前夜祭inキャンドルナイト♡」 https://www.facebook.com/ohmitaga.kamiakari/ 神あかりキックオフイベントとして、今年は多賀大社万灯祭の前夜にキャンドルナイトを開催します! みんなで共にキャンドルを灯し、幻想的で素敵な夏の夜を過ごしませんか?町内町外問わず、どなたでもご参加いただけます。カップル、ご家族またはご友人と、ぜひお越しください! ■日時: 8月2日(木) 19:00~21:00 ・15:00~ キャンドル並べ ・18:30~ 点灯 先日、見つかった短歌。Facebookのグループ「古文書読みたーい」で戸川様が、素敵に訳して下さいました。いつも他力本願で申し訳ないので 少しずつ勉強したいと思いますが150才位までかかりそうです(笑)
昔は、英語が話せる人を尊敬していましたが、今は確実に「古文書が読める」方のステータスの方が上になりました(笑) あまりに、奥が深く 教養が必要です。 多賀大社の門前町ならではの短歌でした。 --------------------------------------------------------------- 三木銀治郎ぬしと三木貞子嬢との結婚を祝して ちはやふる神のをしへを妹(いも)と背(せ)が 天(あめ)のみはしら(御柱)めぐりそめけり 神の教えをいただく新郎新婦が、神代のはじめのイザナキ、イザナミの二柱の神のように、天御柱(あめのみはしら)を初めて巡り回るめでたさよ。 ------------------------------------------------------------- 古事記によれば、国造りをなしたイザナキ・イザナミの夫婦神が、めおとの契りのはじめに天御柱を二人でぐるりと巡り、出会って声をかけあって島や神をなしたといわれています。アメノミハシラをめぐりそめる、というのは、晴れて夫婦となった二人を、ナギ・ナミの神になぞらえた寿歌(ほぎうた)。妹背は夫婦という意味。 歌を詠んだ岩田真造(戸籍は真蔵)は、前述の多賀神社全図の編集人であり、両人の父親の従兄で、わが一族の中心人物であり、明治維新後の坊人の活動を知る上で重要な人物で、多賀大社神職となりつつ、坊人の代表の一人として活動し、明治三十年当時の宮司の湊川神社転勤に同伴し、神戸に引越した模様です。 銀次郎と定が結婚したのは大正五年三月、翌六年に真蔵は六五才で亡くなっています。 坊人は、諜報活動もしていたのではと言われており、真造は「倭・山戸(やまと)」という別名もありました。 本日のNHKの西郷どんで 桂小五郎が登場しました。 三銀蔵のある母屋は、今 店舗に貸していますが、幕末の頃は「車戸宗功」という多賀大社の大祢宜の家でした。 そこへ桂小五郎の内命で、越智斧太郎と偽名を使い彦根藩の様子を探りにきたのが、20才の伊藤博文でした。池田屋事件の前です。 三銀蔵からは、車戸宗功がその顛末を書いた冊子も出てきました。 右は、後の伊藤博文直筆のメモです。(三銀蔵にあったわけではありません) その下が 偽名を使って訪れた堀真五郎と伊藤博文を招き入れた座敷です。 手に負えるはずもなく、放置していたものです。 53葉あります。和歌、俳句、短歌、川柳の違いも あやふや。そもそも 短冊の単位もたった今 検索して「葉」だとわかったばかりです。もちろん、ほぼ、読めません。 よく、ここまでやったねと褒めて下さる方もおられますが、本当はずっと先祖に動かされているというより、踊らされてここまできました。うそみたいですが、入れ替わり立ち代わり、先祖が憑くんです(笑) 何せ、祈祷師から始まった家系です。祖母の父は、キツネさんとも仲良しで、亡くし物が見つけられる才能がありました(残念ながら、私にはその血ながれてないみたいですが) 本家の歴史がつながらない、子孫は何も知らないんじゃないか?と気がついたご先祖さんたちは、周到に罠を仕掛けてきました。 今回も、そうでした(笑) 母が19才の時に亡くなった私の祖父が、甥の結婚の時に書いた歌です。
もちろん、私は会った事がありません。昭和22年位に詠んだと思われます。 私自身は、おが屑の上に寝かされるような材木屋の家に生まれていますし、母の話によりますと、母の実家もかなり貧乏だったそうですが、甥の結婚の時に歌を贈るなんて、なんと文化的なこと。 しかし、まぁ、味のある字です。 母の手元には、このようなものは残っていませんので、 いい感じの母の誕生日プレゼントになりました。 忘れないうちに、メモしておきます。 先のブログ 多賀神社全図には、江戸後期の公卿・歌人である正三位権中将 千種有功の歌が書いてありました。 この方の歌は、延命酒など ある時期の多賀大社のあれやこれやに書いてあり、母などはソラで言えて 驚きました。 てっきり、それだと思っていたら 少し違いました。もちろん、私には読めません。 そこで、FBの「古文書読みたーい」というグループに助けを求めると とても素敵な語訳をして下さいました。 そのままですと
---------------------- 千早振 多賀乃 屋し呂能 ミしめ縄 那可幾 よ者ひも か紀天 堂能末武 ---------------------- 読み ---------------------- ちはやぶる たがの やしろの みしめなわ なかき よはひも かきて たのまむ ---------------------- 千早振(ちはやふる)…「神」にかかるまくらことば 千早振る 多賀の社のみしめ縄 長きよはひ(齢)も かきてたのまむ ---------------------- 意味(歌意) 千年もの永久にまします多賀社の、 尊いしめ縄のように長生きできるよう 神様にお願いしましょう。 ---------------------- 素敵な歌ですね。 下の延命酒に書いているのが有名な歌です。 御志め縄 かけて祈らむ いと長き よはひを守る 多賀の社に 同じ時に時に詠まれた感じですね。 ここを蔵を片づけはじめて、何が驚いたかというと、 ・ご先祖は神主ではなく坊さんだった事 ・多賀ではなく、甲賀の小佐治出身だった事 ・「三木」ではなく、血筋としては「岩田」だった事 でした。 (私からは、母方の実家の本家の本家という感じでしょうか) ついこの間まで何の関係もないと見逃していた事が 次々関係があるとわかり、やっと完成まじかになったと思っていた「三銀蔵の報告書」の書き換えや追加を余儀され、この分では当分かかりそうと諦め、ブログやHPに手をつけはじめました。 何かわかった時に 控えておかないと忘れるので メモ代わりでもあります。 明治20年に、この図を編集したのが、ご先祖の岩田家の跡継ぎ 岩田真造(真蔵)です。江戸時代、明治維新前後、多賀大社を仕切っていた「不動院付き」の坊人の惣代 岩田秀久(私からは4代前の真行の兄)の息子で、神仏習合が廃止され、右往左往の後、神主として多賀神社に勤めていましたが、少なくとも室町時代より存在した 多賀参詣曼荼羅 のようなPR用のあれやこれやは やはり坊人(もう、その時は坊人とは言われていません)が 作っていたのだとわかりました。
しかし、国会図書館のデータにある明治22年の同様の多賀神社全図には、編集人などの情報は載っていません。 次のブログに、左上にある 句について 書きたいと思います。 これは、三銀蔵から出てきた古文書です。 古文書なんて言うのは申し訳けない位で、食器を包んだり、コヨリをつくる為に乱雑に保管されていました。 明治なので、曽祖父 淇内の代のものです。 明治維新で神仏分離令が出るまでは、多賀大社を仕切っていた不動院やその配下の観音院、般若院それぞれに所属する坊人が、日本各地の多賀講の方を宿泊所でもあった各坊にご案内して、祈祷や食事、布団などのお世話をしていました。 伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り と、いう素晴らしい洗脳系コピーライトを流布して、勧誘していました。 しかしながら、毎年、皆さんに起こし頂くのは、金銭的にも時間的にも大変です。そこで、講をつくり、皆で資金を貯蓄して、代表を都度決めて、行けない人の分もお詣りするという代参システムが出来上がりました。 明治38年の左の資料を見ると、三重県志摩の答志島で作られた和具講48人の代参として、4名の方がお多賀さんにお詣り下さった時の収支の一部です。まだ、この頃は、各坊人が担当している講の皆さんの名簿は、門外不出、多賀大社側(神職)では把握出来ませんでした。講の皆さんがいらした時の祈祷も、坊人がしていたみたいです。明治政府が決めた神主の資格はないけれど、講の皆さんにとっては江戸時代より、多賀信仰を導く存在でした。御札を配るだけの仕事ではなかったのでした。 右側は、献立でしょうか。山芋、豆腐等々。こんな事まで、細かく関与していたとは驚きです。ツアーコンダクター以上です。 どうも煮物は、かぎ楼さんに頼んでいたようです。 古文書が読めるようになって、当時の食事が復元できれば、多賀観光も面白くなるのになぁと妄想してしまいました。 何せ、お椀を包んでいた和紙なので半分に切ってあり、日時も不明です。
上の資料を見ると、この時はかめやさんに宿泊して頂いたようで、女中祝儀、饅頭、彦根への電話料、電信料、門前道人力とあります。 電話という事は明治32年以降の書類のようです。少し前の多賀大社の絵図にちょうど門前の通りを行き交う人力車が描いていましたので、何れご紹介したいと思います。 物知りなバーのマスターによると、多賀詣りの後には、彦根の歓楽街だった袋町に寄られる事もあったようで、彦根への電話は、そんな所なのかなぁと思ったりしました。祖父が袋町のきれいなお姉さんと写った写真も、たぶん、多賀講の方をご案内していたからなのかもしれません。 仕事!だったのね。じいちゃん。うたがってゴメン(という事にしておいてあげようっと) やっと、三銀蔵から出して調べていた物の写真を撮って、古文書や資料以外の物を再び三銀蔵に戻しました。これから、目録づくりと蔵に戻した物のナンバリング、タグづけに取り掛かりながら、報告書の完成(現在、B5サイズで250ページ位)を目指します。 先行して、親族や多賀大社、関係者向け概略版の小冊子を作製しました。又、ご紹介したいと思います。 さて、今回は、もしかしたらと妄想していた事が家系図を作ったり、昔の資料と戦うなかで「確信」に変わりつつある事をご紹介したいと思います。 一族のお墓は、知ってる人しか行けないような天台山と言われる小高い山の中にあり(お堂は信長に焼かれたらしいので、戦国時代からいたのかもしれません)ご先祖には「権大僧都 大越家 阿闍梨」という修験僧や山伏にとっての最高の階位がついていました。坊人のルーツは修験僧・山伏だと言えます。
更に、伴侶の出身地をみると隠岐の隠岐氏の娘(私にとってはひいひいばあさん)だったりして、やはり殆どが甲賀忍者と関係が深い家でした。私たちがイメージしている忍者の恰好なんて普段していたら、隠密・諜報活動なんて出来ないので、普段は山伏などの恰好をして・・・と書いているものもありますが、実際に山伏であり、しかも多賀大社の坊人として、大きな顔をして各領地に入り、大名の武運を祈る「牛黄宝印」を敵味方どちらの陣地にも届けられるというスペシャルな役回りだったようです。 甲賀市 薬業の歴史 には、甲賀売薬の起源は、①薬僧から出たとする説、②甲賀忍者の発明とする説の二説が伝えられているとありますが、三銀蔵から出てきた古文書には、薬草の配合などが書かれているものがあり、又、親戚には明治維新以降、売薬業に転身した家もあったり、ある坊人の家からはシュリケンもあったらしいので、二説ではなく『坊人』という職をもう少し深く探れば、今までの仮説のなぞが解ける事もあるのではと感じるようになりました。 例えば、近江から全国に広がったと言えば、木地師と近江商人がいます。どちらも坊人の活躍、その前の多賀信仰の全国展開より新しいのです。 木地師が作っていたルーツの製品の一つに「杓子」があります。多賀杓子は、おたまじゃくしの語源にもなるほど有名な多賀大社のお土産ですが、杓子は元は修験僧が山で修験中に作ったものを持ち帰り配ったのが「お土産」のルーツだと言われていて、道具だけでなく信仰に関係するものとして職能として認定されないと作れなかったそうです。 ひいひいじいさんは、江戸時代、京都の糸へん(近江出身)に勤めてから坊人になっていたり、大叔父は逆に伊藤忠商店に勤めたりしています。伊藤家の男子の跡継ぎがいても、娘に婿養子を迎えるという店の安定・躍進をはかるシステムも、それ以前に坊人の当家でも ガンガン行われていた節がありました。もちろん、全国展開という点でも坊人の方が先輩です。 本日は、ここまでとしますが、近江の歴史を紐とく時に「坊人」という存在を加味すると、又 違った発想が生まれてくるんじゃないかなぁ…と思い始めています。 そう考えると、明智光秀が情報を得やすい多賀(鈴鹿山脈)にいたというのも、まんざらでもない気さえしてしまいます。 エアコンなしの事務所の二階では、なかなか「目録づくり」も進まず、まだ1/3位ですが、やっと少し涼しい日もあり、ピッチを上げて行きたいと思います。
表紙や内容、出版年月日 著者、それと大切な親族の「誰の本」や「落書き」「メモ」などの写真を撮って、それをこのサイトの 三銀蔵ミュージアムの06-三銀蔵文庫に貼り付け、写真からタイトル等、文字に起こしてもらっています。 片っ端から写真を撮って行ければいいのですが、ある程度 分類しながらになりますので、キキトして進まず時に涙が出そうになります(笑) 古くは、江戸中頃の和紙で出来た本から、平成に入ってからの印刷物もありますが、虫に食われたり、カビなどの腐朽菌にやられたのではない「劣化」の仕方をしている本(紙)もあり、かえって和紙の古い本の方がきれいで、新しい本の劣化が激しい事もあります。 又、第二次世界大戦の戦中、戦後に発行された本は、製紙の原料も乏しくかなり質が良くない紙が使われています。 それらを長期に保存しようと思うと ・本に既にいる虫の駆除や汚れ湿気をとる ・目録と合わせた番号を本につける。ただしラベルの紙や粘着物の質への配慮。 ・蔵に片づける時の本棚( 虫や誇り紫外線、湿気から守る)をどうするか などなど、次々と考えなくてはなりません。 ホッチキス(ステイプル)の針や釘と行った金属、戦後に出来た化学合成で作られた接着剤やプラスチィク類も、よく考えないと保存の為には良くない事を身をもって見ているので、いやはや「早い、安い、便利」といった現在使っているものが利用しない方がよいようで、そういう物を選んだり判断するのにも時間がかかります。
親戚の家に行った時に、本棚にあったこの「江州人」という本に目が行きました。.昭和36年に出版された本です。 ところが、そこから目をすこしずらすと、なんと! もっと昔の和紙で綴じられている「古事記」があるではないですか!! それまではあまり感心がなかったのだけどで、少しずつ、色々な話を92才のおばちゃんに聞いていくと、この家はちょっと普通じゃないぞと驚くことばかり。私にとっては、祖父の実家になり本家という事になりますが、あまりにも知らなかった事が多すぎる。しかも、「坊人」というちょっと特殊な家業だった事がわかってきました。
その他にも、この建物に明治維新のドタバタ、桜田門外の変の後、彦根藩の偵察に来た若かりし伊藤博文をかくまったという事がわかったり…。ふぅ。 とりあえず、多賀町文化財センターの皆さんのご協力を得て、蔵にあるものを出して、調査する事になりました。 怒涛の三銀蔵をめぐるドタバタな冒険のはじまりです。 まもる・つなぐ・しまう 簡単な事ではないと、しみじみ身にしみておりますが、乗り掛かった舟。どの方向に行くのやらわかりませんが、何か残せればとこのサイトをボチボチつくる事にしました。 一つ、変化があったのは、母が結婚する前に既に亡くなっていた祖父母や更に何代も前の先祖や親族が身近になり、その生きてきた歴史を未来の子孫に残していくのも、今を生きている私たちの世代の務めじゃないかなと思いはじめた事でした。. |