「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ 09 ●大越家?えーまだあるの!
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「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ 06 ●本家のつとめ。 この小佐治の真行のお墓については、実はちよっともめました。
プライベートな事なので詳細は控えますが、親から詳しい事を聞いていないと、突然、相続が降りかかる事はよくあります。 特に、これから少子化になり、子供がいない人、結婚しない人も増えると 例えば 小さい頃に少し会っただけの 遠くへ嫁いで行ったおばさんの家の相続人です!と 突然知らせが来たりする事もあるんです。 以前「墓」か「石碑」かわからないけれど、傾いているので直した方がいいと、親戚に言って頂いた方がおられたそうですが、何かある毎に自分たちの子供や孫にそのような要求をされても困るだろうと、触れない事にしたらしく、今回の場合も、真行が先祖で甲賀出身だと知っていた親戚はこの世からいなくなっていて、まさか墓があるなんて思ってもおらず、わざわざ首を突っ込む必要はない!という感じでした。 その気持ちもすごくわかります。 しかし、よくよく話を聞いてみると、平成10年(1998年)に夫の真太郎が亡くなり、一人で多賀の三木本家を背負っているしげ子は、銀治郎の実家の方にお願いして、直してもらっていました。10万円を渡し、完成した写真も送ってもらったとの事。 そして、出来ればそのお墓にお参りしたいとの事でした。本家を託されたしげ子にとっては、大切な事だというのもわかりました。 という事で、板挟みになったので、こっそり隠密にそのお墓の捜索に向かう事にしたのでした。なので「いざ! 甲賀へ」という意気込みが必要だったわけです。 結局、こっそりにはなりませんでしたが、実際にそのお墓の前に立ってみると、まだ見ぬ未来の同じ血を継ぐ子供たちが、自分のルーツを知りたいと思ったとしたら、ここでその情報の伝達を絶やすことは出来ないなと思いました。 そこで、何人かの親戚に声をかけ、もう一度ちゃんとお墓詣りをして、色々とルーツをたどる事にしました。 「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ 05 ●混乱。違うルーツの「岩田さん」? 小佐治・浄善寺の木下和尚の御蔭で、先祖、三木真行のマニアックな場所にあったお墓の位置がわかり、こんな場所にいつもお参り頂いている方がおられるとご紹介頂いたので訪ねました。 このお墓に参って頂いていたのは、同じ小佐治の岩田幹也さんという方でした。 三木家には、現在の所 岩田家につながるルートが2つあります。 <ルート1> まず、真行は岩田秀久の弟で、同郷の三木家存続の為に養子になったとあります。ですので、私の直系のご先祖は岩田秀久につながるルートになります。 <ルート2> 三木家には、真行の他にもう一人、小佐治の岩田家から三木家に養子に来たのが、「三銀蔵」の三木銀治郎です。真行からすると孫娘「さだ」の婿養子になります。 そして、「岩田さん」の登場。これは、ガッツリ 先祖につながるか!と期待したのもつかの間。お参りして頂いていたのは親戚だからではなく、真行の兄、岩田秀久のひ孫にあたる「岩田英磨」と同級生で、第二次世界大戦で特攻隊として亡くなった友である英磨を思っての事だったそうです。 確かにありました。秀麿さんのお墓・・・。 少々頭が混乱していましたが、ありがたい事に、岩田幹也さんは大正8年(1919年)生まれ、当時98才でしたが、先生をされていたそうで、とてもしっかりされていて、秀麿の父の先妻(若くして亡くなられたそうです)が、幹也さんの伯母にあたる事もあり、秀麿を含め、三木真行の兄・秀久の子孫の事がわかってきました。 岩田家は真行の子である淇内一家と共に行動し、多賀へ引越した形跡もありました。 秀久の弟 藤吉(真行) とあり、秀久の二男は 真蔵。 この岩田家があった場所は、真蔵院・真蔵坊と言ったそうです。 後からわかったのですが、この真蔵は 多賀大社叢書(そうしょ)という多賀大社の古文書や関係資料を集めた本などにも、三木真行・淇内親子と共に登場します。 しかしながら、この時点では、真行の生家の岩田家(ルート1)と銀治郎の生家の岩田家(ルート2)が関係があるのかどうかまでは、わかりませんでした。 もし、これからファミリーヒストリーを探そうと思われている方がおられたり、そういう気は自分にはなかったとしても、子孫が先祖を知りたいと思う事があるかもしれません。
先祖探しをする時に、戸籍があるから、いつでも…と高を括ってはいけません。 まず、直系以外は見せてもらえません。(もしくは、かなり面倒な書類がいります)戸籍は血が優先されます。嫁いだ先の先祖、伯父伯母のルートは、難しいです。 昔の戸籍は「家」が単位だったので、兄弟の家族や親族が列挙していますが、今の戸籍は、そんなもん知ってるワイという程度で、江戸時代に生まれた人を探すのは困難です。 ぜひ、昔の手書きの戸籍や メモのような一見 役立たずに思えそうな資料も ぜひ 次の世代に先送りしてあげて下さい。過去帳も亡くなった日しかわかりませんし、生前の名前がわからない事も多いです。 今回、物持ちのよい親戚のおかげで 随分 助けられました。 「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ 04 ●お墓発見! 信長に焼かれたお堂跡?! 和尚の後をついて山道をしばらく行くと空間が開けました。 「あんたのとこは、400年さかのぼれるかも。あー、ここには小さなお堂があったんやけど、焼かれてしもてな。信長に…」 クラクラして言葉になりませんでした。 時間軸が違い過ぎる!織田信長に焼き討ちされたとな。 ちよっと、由緒がありそうで嬉しかったのですが、更に400年も先祖が調べられると言われても、とても手に負えません! 信長ではなく、秀吉に焼かれたのではないかという話もあるそうですが、どちらにしても西暦1600年以前の話です。 さて、とうとうご先祖らしきお墓な到着です。お墓が見えます! 少ない・・・。 どうも、わが一族のみの墓地のようです。 奥の一角には、古そうなお墓がたくさん並んでいます。 「やっぱり、おたくは天台宗やったみたい」 丸みを帯びているお墓は、天台宗なのだそうです。この地域は平安時代に最澄が延暦寺をつくる為に木を探しに来て信者が増えたそうで、山岳信仰のメッカです。 山伏、修験者の可能性が大です。 入口の一角は、現在の佐治神社の神主さん「布知永家」のお墓がありました。 そして、その間(天台宗と神道の二つの一族の真ん中)にポツッと 三木真行のお墓がありました。お墓の裏には、下書きで見た真行の略歴が書いてありました。 色々調べたいのは、やまやまですが ここに、いつもお参りして頂いている方がおられるという事で住職が連絡をとって下さっていたので、ひとまず墓地の写真を撮って そちらのお家へ向かいました。
「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ 02 ● 神主ではなく、お坊さん?! 更に、亡くなった人につける戒名には、名前の前に僧侶のしるしの「権律師真行」となっていて、向山の天台山頂に埋葬とあります。天台宗のお坊さんなのか?しかし、神式でお祭りしているとも書いてあります。 いや、そもそも「多賀不動院」なんて聞いた事はないし、現代でも小佐治から多賀までは車で1時間もかかり、お勤めしていたとは考えにくいです。 どういう事? 訳がわかりません。 という事で、とにかく現地へ行ってみる事にしました。 03 ●ルーツを探しに、いざ甲賀へ! では、他にお墓はどこにあるのかと尋ねると、自分の菩提寺(常楽院)の墓で「三木」という名前を見たことがあるので、その菩提寺をみてくれている近くの浄善寺を訪ねてはと教えて頂きました。(常楽院は佐治氏の菩提寺ですが普段は無人なのだそうです。)
浄善寺を訪ね木下和尚にいきさつを話すと「覚えがある」との事でした。 そこで場所を教えて欲しいというと「いやいや、普通とは違うから案内するので車に乗せてって」との事。なんて、親切なご住職。ご先祖のお導きがあるのか、こんなにスイスイ見つかるなんてと感謝しながら運転していると、佐治氏の菩提寺ではなく逆に進み、お墓に至るまでの道のりは、なる程、案内してもらわないと絶対行けない、そして特別な場所だとわかりました。 多賀大社の向いの山を向山というように、佐治神社の向いの小高い山に向い、頂上で車を停め、人一人が通れる程の山道を入って行きました。 <つづく。次回 04●お墓発見! 信長に焼かれたお堂跡?!> |
内容三銀蔵や多賀大社・坊人について調べた事の報告書を作成中です。その内容をボチボチ順番にUPして行きます。 アーカイブカテゴリ
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