<![CDATA[つなぐ三銀蔵 - 三銀蔵 Family History]]>Mon, 23 Mar 2020 14:48:18 +0900Weebly<![CDATA[延命酒のなぞと新嘗祭の危機]]>Sun, 25 Nov 2018 00:50:22 GMThttp://3-gin.net/fh/4224532「第ニ章 幻の坊人とは?! 」2-3 坊人の仕事

11月23日は、勤労感謝の日で祝日ですが、元々は新嘗祭(にいなめさい)」の日で、天皇陛下が,新穀を皇祖はじめ神々にお供えになって,その年の収穫を感謝された後,陛下自らもお召し上がりになる祭典で、日本の各々の神社でも行われ、神社にとっても最も大切な行事の一つです。

ご飯が頂ける事に感謝をする日で、間違っても自分ががんばって働いたことを、ほめてもらう日ではないようです(笑)

今年は、今上天皇ご在位中、平成最後の新嘗祭となりました。
そして、来年は新しい天皇が即位の礼の後、初めて行われる新嘗祭「大嘗祭(だいじょうさい」があります。
という事で、第二章に飛んでしまいますが、多賀坊人の事を調べているいると必ず出てくる「延命酒」のなぞと、国の政策に翻弄された「新嘗祭」についてお話ししたいと思います。

●なぞの延命酒


​坊人の活動を調べていると、その中に必ずと言っていいほど「延命酒」が出てきます。お客様の所にお届けしていて、坊人にとって外せない一品だったように思います。興味津々、気になって気になって仕方がありませんでしたが、どんな物なのかさっぱりわかりませんでした。

すると、やはり三銀蔵から出てきました。ともて素朴で趣きのある徳利です。多賀大社の社務所で聞くと、延命酒の販売を止めた時の徳利とは形が違うとの事でした。

お酒の販売に許認可が必要になり、やむなく止めたが、当時は日本酒ではなく甘かったとの事でした。味りんのような感じだったとか。

多賀大社で神主をしていた三木直治から以前は神社で使うお酒は渡船(酒米の種類)だったと聞いた事がありましたが、どこで聞いても内容や製造している所がわかりませんでした。

徳利の上の方、多賀の下のマークは、多賀大社の神紋「三つ巴」です。

徳利の下の文章は、年配の人の中にはスラスラと言える人もいる程で、多賀ではメジャーだったようです。
-------------------------------------
『御しめ縄 かけて
 祈らむ いと長き
 よはひを守る 多賀の社に』
     延命酒
​-------------------------------------
これは、江戸後期の公卿・歌人である 正三位権中将 千草有功(ちぐさありこと 、1796年-1854年) が読んだ歌のようです。号は千々廼舎 
お猪口もありました。


●​多賀大社で作っていた!?


​ 延命酒の中身がどんな物かわからず、半ばあきらめていた時、三木本家の二階を片付けているとひょんなところから『回顧録・長谷外余男』という本が出てきました。何となくペラッとめくると「神酒」の文字が目に留まりました。

長谷外余男氏は、大正7年から昭和9年にかけて多賀大社の宮司をされ、多賀大社の昭和の大造営、その後、紀元2600年祭記念事業の中核樫原神宮の造営、熱田神宮宮司として、戦時中の三種の神器の一つ天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ=草薙剣)の避難や戦後のGHQとの交渉にあたられた三木本家・多賀大社のみならず神社本庁にとっても大変功績のあったすごい方です。

「回顧録」は昭和31年の喜寿を記して書かれた本で、元多賀大社宮司もご存知なかった事がかなり書いてあるレアな本です。非売品。

『新嘗祭用白酒の謹醸』と題して、
・昔は各神社でそれぞれ造った事
・醸造に関する諸法規が定められ、新米で白酒を造る事が禁止された事
・神社でそれまでのお酒造りが出来なくなった時のドタバタ
などが書いてありました。

その年は何とか古酒で乗り切ったものの、新嘗祭は五穀豊穣に感謝する古来神社の大切な行事で、その年のお米とその新米で作った新酒を各神社が作ってお供えしており、祝詞にも「初穂」とあり、新嘗祭の祝詞を変える訳にもいかず、何より神様に嘘はつけないので政府に陳情したが聞き入れてもらえず、滋賀神職会で相談し、昭和3年の大嘗祭の時の「白酒・黒酒」を作られた愛荘町の蔵元藤居本家にお願いした所、快諾して下さり、神酒専用の蔵の新設やお米の手配に奔走したと書いています。

その後、滋賀県のみならず伊勢神宮や全国の有名な神社にも供給されるようになり、他の神社もそのご縁からお願いされるようになったとか。つまり、全国の神社がこの時、かなりご苦労をされた事が、この文からわかります。
伊勢神宮はその後、自社で作られるようになったそうですが、藤居本家は宮中をはじめ全国の新嘗祭のお神酒(白酒)を現在も納めている数少ない酒蔵のようです。

文章に「神酒用の白酒だけは造ることが出来るように」政府にお願いしたとあるので、神酒用の白酒ではない延命酒も多賀大社で作っていたのではと推測できます。
もし、既に延命酒を作っている酒蔵があれば、お神酒もそこに頼めばすむはずです。

この出来事は、大嘗祭の昭和3年~長谷宮司が多賀大社から橿原神宮に移られる昭和9年までの話ですので『醸造に関する諸法規』が 如何様だったのか調べてみましたがわかりませんでした。明治30年時点で酒税は国の税収の3分の1に達するほどの比重で戦争等により税収が必要になり、酒造会社に増税を強いる代わりに「どぶろく」という自家製造の酒づくりを禁止した余波が神社にも及んだという 結構バチあたりな法律のような気がしてきました。

「ほんらい食用に回すべきお米を酒にしてしまう」との発想から、酒が不届きなぜいたく品のようにも考えられた当時は、「成分中のアルコールが米に由来しない」ということが近代的で良いこととして解釈されていたようです。日本酒好きにとっては、実に腹立たしい(笑)思想です。

しかしながら、最近は日本古来の伝統的文化であるとして「どぶろく特区」という
地域振興の観点から構造改革特別区域も出来ているようです。


●延命酒と三銀蔵


もう一度、色々な資料を見直さないと…と思いつつ先送りしていますので、詳しくはこれからという事になりますが、多賀大社叢書に江戸末期 元治元年(1864年) 9月10日だと思われるに日記に、先祖の真行の事が載っていました。 
9月9日に真行が亡くなった時のドタバタが書いているので、子孫としは少々悲しくなりますが、生前の営業努力が実り、伊勢津藩の第11代藩主藤堂 高猷(とうどう たかゆき)、甲良町出身の藤堂高虎のご子孫の殿に白銀二枚の奉納(オーダー)を頂戴し、真行に代り甥の真造(日誌には跡目とあるが、たぶん勘違い)と弟子(隠岐氏・親族)が、延命酒3合徳利二つ入の用と徳利1つ用の木箱、それとたぶん上等な多賀杓子2本入り用の木箱2箱を 檜物屋忠次にオーダーしています。

大きな徳利もあったようです。

先に多賀大社のお酒は「渡船(わたりぶね)」という酒米で出来ていたと書きましたが、
明治29年(1896年)〔滋賀県農事試験場〕にて作られた品種だそうで、江戸時代にはなかったようです。

●限定販売

話を総合すると、今 わかっているのは
  • 明治中頃までは、酒米は渡船ではなかった。
  • 少なくとも昭和4年以前は、多賀大社で日本酒を作っていた。
  • その後、多賀大社では本格的に日本酒は造っていない。
  • どこかの酒蔵で作ってもらっていたか、酒税法に抵触しない液体に変更した。
  • 販売するのにも免許が必要になり、延命酒の取扱いを多賀大社ではやめた。

そんな中で、延命酒を販売しても良いお店が 多賀に二軒ありました。
超限定販売ですよね。

一軒は、今も多賀の交差点と多賀大社前で営業をされている
「大津屋 本多酒店」

最近、カフェとして以前の名前を復活された
「多賀あさひや」

どちらのお店も 今はもちろん延命酒はありませんが、ちゃんと 徳利が飾ってあります。

]]>
<![CDATA[大越家?えーまだあるの!]]>Fri, 02 Nov 2018 09:26:26 GMThttp://3-gin.net/fh/2795256「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ

09
​●大越家?えーまだあるの!

過去帳の名前(戒名)を見て愕然としました。「大越家」とあります。

先祖が、三木ではなく岩田だったことでも調べるのが大変なのに、岩田は実は大越(おおこし)さんなの?

思わず「もう、勘弁してください」と言葉に出てしまいました。

さっそく、同行していてくれた当時多賀町文化財課におられた佐野さんが調べてくれました。

すると、「修験者なんかの立派な位につくものみたいですよ!」と。

そういえば、横には「阿闍梨(あじゃり)」とあります。比叡山で千日回峰行をした高僧についています。「大越家」は「おおこしけ」ではなく「だいおっけ」と読むそうで、山伏の階位の中で、山岳修行を36回以上したという最高の位なのだそうです。

山伏については、こちらにこってり書いて頂いています。
抜書き『山伏』
  • 山伏の身分は最高を大越家といい、次を大宿大先達正先達先達新先達度衆新客などの順次が、当山派にはできていった。 

なんだか、すごいご先祖様だったみたいです。

山伏、決定ですね。
]]>
<![CDATA[再び、大勢でご先祖様をめぐる旅へ]]>Thu, 25 Oct 2018 08:56:48 GMThttp://3-gin.net/fh/1422947「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ

07
●再び、大勢でご先祖様をめぐる旅へ

 2016年11月末、しげ子はじめ、親族と定番の多賀のお土産「糸切り餅」を持って、銀治郎さんの実家、お墓、お寺…等々、廻ってきました。

驚きの発見がいくつかありました!後から詳しく書きますが、甲賀と多賀大社はきっても切れない関係で、岩田家、三木家は多賀大社の歴史にとても関係があるという事で、多賀町文化財課の方も同行して下さいました。

まずは、銀治郎の生家(ルート2)へ

 佐治神社とお墓のある丘がバッチリ見える小高い場所に銀治郎の生家の岩田家はあります。しげ子の夫、三木真太郎の父親の銀治郎は、岩田家(ルート2)の四男で三木家に養子に来て下さいました。その銀治郎の長兄のお孫さんの家です。

過去帳を拝見!

 過去帳というのは、毎月毎日お経をあげる為にある物のようで、日にち別に江戸時代も昭和も月は違っても同じ日に亡くなった人が一括りになっています。

しかも、古い方は何歳で亡くなったとか、生前はどういう名前で、誰とどういう関係かというのがわかりません。

​更に、判別が困難なのが当家(岩田家)の特殊な事情によるもので、同じ名前を何度もつけていたり、寺院の名前(真蔵院)で表記してあったりします。

しかし、いくつかの貴重な事がわかりました。


08
​●ルート1.2は同じご先祖


岩田秀久(ルート1)の古い戸籍の写しに「真蔵」とあります。又、岩田幹也さんから岩田秀麿が父 真一が亡くなり青島(中国)から帰ってこられてから住んでいた場所を「真蔵院」といったと聞いていました。

ルート2の銀治郎の生家の過去帳にも「真蔵院」がいっぱいです。

どこで、つながっているかはわかりませんが、明らかに同じ祖先を持つ家だとわかりました。

名前には「秀」「真」が使われる事が多いようです。
]]>
<![CDATA[本家のつとめ。]]>Sat, 20 Oct 2018 09:01:15 GMThttp://3-gin.net/fh/5646227「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ

06
​●本家のつとめ。


この小佐治の真行のお墓については、実はちよっともめました。

プライベートな事なので詳細は控えますが、親から詳しい事を聞いていないと、突然、相続が降りかかる事はよくあります。

特に、これから少子化になり、子供がいない人、結婚しない人も増えると 例えば 小さい頃に少し会っただけの 遠くへ嫁いで行ったおばさんの家の相続人です!と 突然知らせが来たりする事もあるんです。

以前「墓」か「石碑」かわからないけれど、傾いているので直した方がいいと、親戚に言って頂いた方がおられたそうですが、何かある毎に自分たちの子供や孫にそのような要求をされても困るだろうと、触れない事にしたらしく、今回の場合も、真行が先祖で甲賀出身だと知っていた親戚はこの世からいなくなっていて、まさか墓があるなんて思ってもおらず、わざわざ首を突っ込む必要はない!という感じでした。

その気持ちもすごくわかります。

しかし、よくよく話を聞いてみると、平成10年(1998年)に夫の真太郎が亡くなり、一人で多賀の三木本家を背負っているしげ子は、銀治郎の実家の方にお願いして、直してもらっていました。10万円を渡し、完成した写真も送ってもらったとの事。

そして、出来ればそのお墓にお参りしたいとの事でした。本家を託されたしげ子にとっては、大切な事だというのもわかりました。

という事で、板挟みになったので、こっそり隠密にそのお墓の捜索に向かう事にしたのでした。なので「いざ! 甲賀へ」という意気込みが必要だったわけです。

​結局、こっそりにはなりませんでしたが、実際にそのお墓の前に立ってみると、まだ見ぬ未来の同じ血を継ぐ子供たちが、自分のルーツを知りたいと思ったとしたら、ここでその情報の伝達を絶やすことは出来ないなと思いました。

そこで、何人かの親戚に声をかけ、もう一度ちゃんとお墓詣りをして、色々とルーツをたどる事にしました。

]]>
<![CDATA[混乱。違うルーツの「岩田さん」?]]>Fri, 19 Oct 2018 09:06:41 GMThttp://3-gin.net/fh/1603894「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ

05
●混乱。違うルーツの「岩田さん」?


小佐治・浄善寺の木下和尚の御蔭で、先祖、三木真行のマニアックな場所にあったお墓の位置がわかり、こんな場所にいつもお参り頂いている方がおられるとご紹介頂いたので訪ねました。

 このお墓に参って頂いていたのは、同じ小佐治の岩田幹也さんという方でした。

三木家には、現在の所 岩田家につながるルートが2つあります。

<ルート1>
まず、真行は岩田秀久の弟で、同郷の三木家存続の為に養子になったとあります。ですので、私の直系のご先祖は岩田秀久につながるルートになります。

<ルート2>
三木家には、真行の他にもう一人、小佐治の岩田家から三木家に養子に来たのが、「三銀蔵」の三木銀治郎です。真行からすると孫娘「さだ」の婿養子になります。


そして、「岩田さん」の登場。これは、ガッツリ 先祖につながるか!と期待したのもつかの間。お参りして頂いていたのは親戚だからではなく、真行の兄、岩田秀久のひ孫にあたる「岩田英磨」と同級生で、第二次世界大戦で特攻隊として亡くなった友である英磨を思っての事だったそうです。

確かにありました。秀麿さんのお墓・・・。

少々頭が混乱していましたが、ありがたい事に、岩田幹也さんは大正8年(1919年)生まれ、当時98才でしたが、先生をされていたそうで、とてもしっかりされていて、秀麿の父の先妻(若くして亡くなられたそうです)が、幹也さんの伯母にあたる事もあり、秀麿を含め、三木真行の兄・秀久の子孫の事がわかってきました。

岩田家は真行の子である淇内一家と共に行動し、多賀へ引越した形跡もありました。

秀久の弟 藤吉(真行) とあり、秀久の二男は 真蔵。
この岩田家があった場所は、真蔵院・真蔵坊と言ったそうです。

後からわかったのですが、この真蔵は 多賀大社叢書(そうしょ)という多賀大社の古文書や関係資料を集めた本などにも、三木真行・淇内親子と共に登場します。

しかしながら、この時点では、真行の生家の岩田家(ルート1)と銀治郎の生家の岩田家(ルート2)が関係があるのかどうかまでは、わかりませんでした。


三銀蔵 裏話
もし、これからファミリーヒストリーを探そうと思われている方がおられたり、そういう気は自分にはなかったとしても、子孫が先祖を知りたいと思う事があるかもしれません。

先祖探しをする時に、戸籍があるから、いつでも…と高を括ってはいけません。

まず、直系以外は見せてもらえません。(もしくは、かなり面倒な書類がいります)戸籍は血が優先されます。嫁いだ先の先祖、伯父伯母のルートは、難しいです。
昔の戸籍は「家」が単位だったので、兄弟の家族や親族が列挙していますが、今の戸籍は、そんなもん知ってるワイという程度で、江戸時代に生まれた人を探すのは困難です。

ぜひ、昔の手書きの戸籍や メモのような一見 役立たずに思えそうな資料も ぜひ 次の世代に先送りしてあげて下さい。過去帳も亡くなった日しかわかりませんし、生前の名前がわからない事も多いです。

今回、物持ちのよい親戚のおかげで 随分 助けられました。
]]>
<![CDATA[お墓発見! 信長に焼かれたお堂跡?!]]>Thu, 18 Oct 2018 23:49:09 GMThttp://3-gin.net/fh/3212599「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ

04
​●お墓発見! 信長に焼かれたお堂跡?!

和尚の後をついて山道をしばらく行くと空間が開けました。

「あんたのとこは、400年さかのぼれるかも。あー、ここには小さなお堂があったんやけど、焼かれてしもてな。信長に…」

クラクラして言葉になりませんでした。

時間軸が違い過ぎる!織田信長に焼き討ちされたとな。

ちよっと、由緒がありそうで嬉しかったのですが、更に400年も先祖が調べられると言われても、とても手に負えません!

信長ではなく、秀吉に焼かれたのではないかという話もあるそうですが、どちらにしても西暦1600年以前の話です。

さて、とうとうご先祖らしきお墓な到着です。お墓が見えます!
少ない・・・。

どうも、わが一族のみの墓地のようです。

奥の一角には、古そうなお墓がたくさん並んでいます。

 「やっぱり、おたくは天台宗やったみたい」
丸みを帯びているお墓は、天台宗なのだそうです。この地域は平安時代に最澄が延暦寺をつくる為に木を探しに来て信者が増えたそうで、山岳信仰のメッカです。

山伏、修験者の可能性が大です。

入口の一角は、現在の佐治神社の神主さん「布知永家」のお墓がありました。

そして、その間(天台宗と神道の二つの一族の真ん中)にポツッと 三木真行のお墓がありました。お墓の裏には、下書きで見た真行の略歴が書いてありました。
色々調べたいのは、やまやまですが ​ここに、いつもお参りして頂いている方がおられるという事で住職が連絡をとって下さっていたので、ひとまず墓地の写真を撮って そちらのお家へ向かいました。
]]>
<![CDATA[a1-01 神主ではなく、お坊さん?!]]>Thu, 18 Oct 2018 08:50:10 GMThttp://3-gin.net/fh/a1-016521917「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ

02
● 神主ではなく、お坊さん?!

甲賀と言えば、世界的にも有名な忍者が思い浮かびますが、甲賀町小佐治も忍者(忍び)で有名な甲賀二十一家に数えられた佐治氏が治めていた町です。

あらっ、忍者だったのかもと少々期待に胸が膨らみました。

​しかし、三木と言えば神主の家系。小佐治にある佐治神社と関係があるのではと思ったのですが、この「履歴」には兄の岩田秀久と「多賀不動院の配札」とあります。
お札(ふだ)を配る仕事という事です。​

更に、亡くなった人につける戒名には、名前の前に僧侶のしるしの「権律師真行」となっていて、向山の天台山頂に埋葬とあります。天台宗のお坊さんなのか?しかし、神式でお祭りしているとも書いてあります。

いや、そもそも「多賀不動院」なんて聞いた事はないし、現代でも小佐治から多賀までは車で1時間もかかり、お勤めしていたとは考えにくいです。

どういう事? 訳がわかりません。

​という事で、とにかく現地へ行ってみる事にしました。

03
​●ルーツを探しに、いざ甲賀へ!


​多賀から国道307号線を南下して小佐治を目指しました。小佐治の農協に市民センターという看板があり、入ってみるとありがたい事に小佐治在住の佐治さん(佐治氏の末裔の方でしょうか)がおられました。

まず、略歴にあった「向山という所にあるお墓はご存知ないか」と尋ねると、わからないとの事。
では、他にお墓はどこにあるのかと尋ねると、自分の菩提寺(常楽院)の墓で「三木」という名前を見たことがあるので、その菩提寺をみてくれている近くの浄善寺を訪ねてはと教えて頂きました。(常楽院は佐治氏の菩提寺ですが普段は無人なのだそうです。)

浄善寺を訪ね木下和尚にいきさつを話すと「覚えがある」との事でした。

そこで場所を教えて欲しいというと「いやいや、普通とは違うから案内するので車に乗せてって」との事。なんて、親切なご住職。ご先祖のお導きがあるのか、こんなにスイスイ見つかるなんてと感謝しながら運転していると、佐治氏の菩提寺ではなく逆に進み、お墓に至るまでの道のりは、なる程、案内してもらわないと絶対行けない、そして特別な場所だとわかりました。

多賀大社の向いの山を向山というように、佐治神社の向いの小高い山に向い、頂上で車を停め、人一人が通れる程の山道を入って行きました。

<つづく。次回 04●お墓発見! 信長に焼かれたお堂跡?!>

]]>
<![CDATA[A1-01 いざ!甲賀へ]]>Sat, 13 Oct 2018 12:31:48 GMThttp://3-gin.net/fh/a1-01「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ


01 
●えっ! 三木じゃなかったの?!多賀ではなく甲賀?!

三木本家の資料の中に、何かの下書きのようなものを見つけました。今の漢字に直すと「履歴略伝」。三木真行の略歴のようです。

ん?真行って誰?

漢文で書いてあり、もう一つ意味が理解できません。

すると、昔の戸籍謄本が出てきて、三木淇内(きない)の亡父とありました。

淇内はそれまで知る範囲で一番古いご先祖様でした。つまり、今、わかる範囲で更に古いご先祖様、発見となります!

「文化8年(1812年)甲賀郡小佐治生まれの真行は若い頃、京都で商いの仕事をしたのち兄の岩田秀久の仕事を手伝い…同郷の三木家存続の為に養子に」とあります。

三木ではなく、ルーツは「岩田」だったようです。驚きです。

しかも、甲賀ですって・・・。



三銀蔵 裏話
三木というのは私の母の実家で、ずっと神職一家だと思っていました。三銀蔵の本家は母の父、私の祖父の実家になります。そんな遠い間柄なので、本当は何の興味も使命もありませんでした。
親戚ではありますが、私の実家が工務店で、家の改装などをさせてもらっていたので、お施主様の家を訪問した時 と言った方が正確なのだけど、本棚に目をやると まず「江州人」というチョット古そうな本があり、手を伸ばすと その横には「ずらーっ」と和書がありました。

普通の家の居間に「古事記」があるんです!

驚きました。となりには「日本書紀」も。しかも、飾りではなく ちゃんと読んでる感じ。。。

「なんだ?! この家は​!」

すると、蔵にも何かあると おばちゃん(しげ子)がいうのです。

そこで、多賀町文化財センターに相談した事から、果てしない先祖をめぐる冒険がはじまってしまったのでした。
]]>
<![CDATA[a1-01 第一章ダイジェスト]]>Sat, 13 Oct 2018 11:36:06 GMThttp://3-gin.net/fh/a1-006352352この報告書は、4章になる予定です。
まず、ざっくり どんな内容になるのか ご紹介します。

第一章 ルーツを探せ!

第一章では、一枚の紙切れからNHKのファミリーヒストリーばりの私たち子孫が知らなかった驚愕のルーツがわかるまでを紹介します。

1-1 いざ!甲賀へ

​一枚の略歴らしき紙を見つけ、先祖らしき人の墓が甲賀にあるとわかり探しに行ってわかった事。
  • 先祖は三木ではなく岩田だった。

  • お墓は特別な場所にあり、信長に焼かれたお堂があったらしい。

  • 神主ではなく、神社にいた坊主だった。

  • 修験者・山伏の最高峰の位を持つご先祖がいっばい。

  • 伝説になっていた先祖の住居跡「淇内屋敷」発見

  • 忍者で有名な甲賀21家佐治氏と深い関係だった。


1-2 ご先祖様は、こんな人

お墓の裏に彫ってあった文、笏の形の仏教でいう位牌の裏に書いてあった文、岩田家の過去帳、残してあった昔の戸籍、多賀大社叢書などからわかったファミリーヒストリー
  • 少なくとも私から8代前、西暦1600年代中頃の祖先が解明

  • 直系の先祖は、江戸時代、京都の呉服商で働いた後、25歳で兄・秀久と共に家業である多賀大社・不動院の坊人(使僧)になった。

  • 結婚してから、夫婦一緒に岩田家から三木家の養子になった。

  • 銀治郎の祖父と真行・秀久は兄弟っぽい。

  • 坊人の家は、近江商人のように息子がいても娘に婿養子をとり、坊人の仕事に従事させていたようだ。

  • 妻は、甲賀21家もしくは坊人の家から嫁いでおり、岩田家を中心とする血縁・婚姻関係の「坊人組織」があった。

  • 妄想、佐治氏と信長・家康の関係が、坊人活動に役立ったかも

第二章 三木家の家業・幻の坊人とは

第三章 三銀蔵の歴史と明治維新

第四章 明治維新後の三木家の人々


]]>
<![CDATA[a1-00三銀蔵とは]]>Fri, 12 Oct 2018 00:22:35 GMThttp://3-gin.net/fh/a1-005066804
A00 三銀蔵(さんぎんぐら)とは

01●ざっくり、三銀蔵について
02●名前の由来
03​●三銀蔵の取組み

01●ざっくり、三銀蔵について
  • ​三木家は江戸時代まで、本家の岩田家と共に甲賀小佐治の社僧(修験者)も兼ね、代々多賀信仰を全国に広めた「坊人」の一族でした。

  • その活動は、信頼関係で結ばれた「多賀講」の基礎になっていました。

  • 明治政府の神仏分離政策の後、多賀に移り住み、神主になりました。

  • この蔵は、文政十年(1827)現在の多賀大社の参道に建てられていたものを、昭和八年(1933)多賀大社大造営時に三木銀治郎が買い受け移築しました。

  • 近年、三木家親族が最後の「坊人」の子孫としての役目を終え、「坊人」は今は無き幻の職業となってしまいました。

  • 三銀蔵に遺る古文書・資料から、今まで語られる事がなかった「坊人」の姿や、違う側面からの多賀大社の歴史が詳らかになりつつあります。

  • この屋敷の建物は、当時の戸主が桜田門外の変後、維新の志士・伊藤博文らと彦根藩との明治維新の秘史を今に伝える貴重な建物です。一部「文庫蔵」は、多賀大社に移築されました。
蔵の看板に、もう少し詳しく書いています。
→ こちら

02●名前の由来​
  • 『三銀蔵』の三銀とは、治郎の略です。
  • 蔵の色々な物に『三銀』と焼印が押してありました。
そして、何より銀治郎の
  • 多賀大社の門前を守るという強い気持ち
  • 多賀大社の為に一生懸命活動した事
  • 坊人の代表の一人として矢面にたっていた事
  • 多賀の文化や発展に尽くしていた事
  • 往古より続いてきた岩田・三木両家の「坊人」という家業を守り、伝え、発展させてきた事
に敬意を表し、今回この蔵を『三銀蔵』(さんぎんぐら)と名付けました。

03​●三銀蔵の取組み
​ しかしながら、この冊子は「三木銀治郎物語」ではなく、母屋から出てきた物や銀治郎より前の祖先や兄弟の歴史、三木家や本業であった「坊人」の事、母屋の建物の歴史など、多様な内容になっています。

蔵の名称だけでなく、以下の取組も含め「三銀蔵」を活動名とします。

  • 三木家伝来資料(図書・古文書・書画・調度日常品・服飾等)や現存する建築物等の「保存、調査研究、展示」を行います。
  • 多賀町又は、その周辺地域の隠れた歴史、文化、建築物等の調査研究を行います。
  • 以上により、先人から学び、よりよい未来へつなげる架け橋としての環境づくりを行い、文化と教育、地域の発展に寄与できるよう努めます。

と、いう事で しばらくは以下の活動を重点にボチボチ作業を進めています。

三木家の先祖・歴史を、これからつながる子孫に伝える。

今はなき「坊人」という存在をつまびらかにする。

多賀大社や地域の観光・文化の「未来」に寄与できそうなヒントを探す。
第一弾として、三木真太郎没後20年祭を機に A5サイズ28ページの冊子をつくり、親族等に配布しました
]]>