多賀大社が由来に大きくかかわっていたなんて・・・ 三銀蔵を調べていると、坊人(ぼうにん)について書いている各時代の文献や書いている人の立場により、フィルターがかかっている事に気が付きました。 「定説を疑って、もう一歩深く見てみる」事の大切さが身にしみました。 ウィキペディア(Wikipedia)だって、まるっぽ信じきってはいけなかったりね。大助かりだけど。 それによると「宇多天皇の時代(867年-931年)、鞍馬山の僧正が谷と美曽路池(深泥池)の端にある石穴から鬼が出て来て都を荒らすのを祈祷し、鬼の穴を封じて三石三升の炒り豆(大豆)で鬼の目を打ちつぶし、災厄を逃れたとする由来伝説」があったという。 追儺(ついな)という中国から伝わった宮中の年中行事で、平安時代(794~)の初期頃から行われている鬼払いの儀式がベースだと書いてある。 その追儺という行事が 金色の目4つもった面をつけて、右手に矛、左手に大きな楯をもった方相氏(鬼を払う役目)が大内裏を回るとき、公卿は清涼殿の階(きざはし)から弓矢をもって方相氏に対して援護としての弓をひき、殿上人(でんじょうびと)らは振り鼓(でんでん太鼓)をふって厄を払ったとあり、更に『法史瑣談』 では「右手に持てる戈を以て左手の楯を打つこと三回、親王以下の群臣は、これに和して桃の弓、葦の矢、桃の杖を以て疫鬼を宮門の外に追ひ出すのである」とある。 ここまでは、史実だと思われる。 そして、更に遡ると、日本最古の歴史書である『古事記』(712年太安万侶編纂)に ルーツらしきものが登場する。 多賀大社の御祭神である伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)のちょっと怖いけれど、ガンチクのある物語の一説。もちろん、神様の話なので史実ではないけれど、きっと、昔の出来事を例えたり、ちよっと権威付け(にしては、素朴だけど)する為に書かれたのだろうと、私は思っていますの。 古事記の桃 そして、伊邪那岐はその桃に 「私を助けてくれたように、人民が苦しいときには助けてくれ」と言い、意富加牟豆美命(オオカムズミノミコト)という名前を与えました。 桃の霊力を豆に 実際に、桃の種は 桃仁と言い、現在も漢方の生薬として利用されていて 特に婦人科系の症状に効くと言われています。東京生薬協会のサイト 2010年桜井市の纒向(まきむく)遺跡で大量の梅の種が出土し、2018年 放射性炭素(C14)年代測定を実施したところ、西暦135~230年とみられることがわかったそうです。卑弥呼の時代ですね。 本当に、中国の行事をまねたのか ちょっと 疑ってみてもいい気がしてくる程です。 豆=桃のルーツは、伊邪那岐命=多賀大社 出典は、どこだか不明ですが 神社の節分の祝詞に「桃の霊力を豆に移す」というのがあるそうで、豆まきのルーツは貴船神社だと言われてはいますが、「豆=桃」のルーツは 伊邪那岐命であり 御祭神としてお祀りしている 多賀大社で いいんじゃないの!! と 思った次第です。 ならば、本家本元の多賀大社で豆を買う 明治政府の神社における加持祈祷・占い等の禁止以降、「桃の霊力を豆に移す」というような祝詞が使えたかどうかは不明で、厄除けの豆まき・節分祭が行えたのは戦後なのだそうですが、販売している「豆」は ちゃんと祈祷しているとの事。 スーパーで買う豆は どうなんだろう・・・と ちょっと ?マークがついてしまいましたが、2019年2月3日は ちょうど日曜日。 せっかくなので、多賀大社の節分祭でゲットしに行こうかなと思っているところです。多賀大社 節分祭はこちらを 三木家にあった「桃の木」
母の実家には、以前 桃の木があったそうで 多賀祭りの時には 神事に使うという事で多賀大社から枝を取りにいらしたそうです。実家は、元々 江戸時代より多賀大社の神主をされていた 車戸家の畑でした。 桃が 神事に使われていた事は確かなようです。 |