元々、佐目を含む多賀は京極氏(多賀高忠)の管轄でしたが、1475年に明智家が頼ったという六角高頼氏(多賀清直)が勝って、1478年に近江守護に返り咲いていますので、佐目は六角氏の管轄になっていたと思われます。
しかしながら、1480年文明美濃の乱では「斎藤利国+土岐成頼+京極氏」に負けています。 佐目は、北からは京極氏、東からは「斎藤氏+土岐氏」が攻めてきた時の 砦の一つとなる場所だったと言えます。 京極騒乱といって、京極家から発生した多賀氏も内輪もめしており、多賀は丁度、京極Vs.六角の取り合いの地でした。 後の関ヶ原の合戦で島津藩が敗走に使った「島津越え」の道は、美濃の時山から、多賀の五僧に入りますが、昔の地図を見ると「時山」は「土岐山」と書いてあり、土岐氏及びその流れを組む明智家も、案外近くの存在だったのかもと驚きました。 |