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三銀蔵 日記
おもいつきブログ

三銀蔵と戦争01

6/8/2018

コメント

 
もうすぐ終戦記念日なので、三銀蔵と戦争について書きたいと思います。

私の近い親族に戦地に行った人がいないのと、両親も終戦の時に8、9 才で、正直、戦争は他人事でした。いけない事だというのはわかっていますし、もちろん反対ですが、戦争に関する情報を得ても、リアリティがなくて表面的な感想しか持てませんでしたし、体験していない事に共感できる感受性も持ち合わせていませんでした。

しかしながら、やはり出てきた物から三銀蔵の歴史や文化をつまびらかにするには、避けて通れないので、現在 執筆中の三銀蔵の「報告書」から 淡々と抜粋したいと思います。

三銀蔵から出てきた、戦争関係の写真はこちらに(一部です)
​3-gin.net/17-01.html

銀治郎の長男・真太郎は、彦根中学( 現彦根東高校) を卒業して、神職を継ぐべく国学院大学に行っています。三銀蔵から出てきた真太郎の戦前と戦後に読んでいた本からは文学青年だったとわかり、何冊かの哲学書もあり、私が知っている飄々とした感じの真太郎らしいなと思える物でした。

しかし、実際に真太郎が戦地に着て行った軍服等が一式出てきて、捨てられずいた事、戦争後に真太郎が買った本からは「一体、この戦争は何だったか」という事を探そうとしていたのではと思える事、多賀町の戦後50 年の記念誌に戦地での出来事を寄稿した時の何度も書き直ししている原稿など、実際の物に触れるてみると、言葉には出来ませんが、とても重い物が身体に残りました。

マラリアにかかったそうで、帰ってきてから数年たっても、時々 とても寒がったそうです。よく、生きて帰ってきたなぁと思いました。実際に、銃弾で亡くなった人より、病気や飢餓で亡くなった方の方がずっと多いそうです。

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●真太郎くんの反抗。やるなぁ。

まず、戦況がひどくなる前の状況です。

 国学院大学の予科から大学部に進んだ真太郎は、大学生の徴集延期や徴兵検査の結果で、しばらくは戦争に行かずに済みました。先のブログにも書きましたが、今でいう高校生の時に病気で休学していますので、身体が強い訳ではなかったようです。

履歴書を見ると、昭和16 年2 月大学中退とあり、卒業目前にどうして?と思い、調べると当時は繰り上げ卒業などもあった事がわかりました。

しかし、その事をしげ子に話すと、なんと父・銀治郎に内緒で新聞社で働いていたそうです。蔵書からイメージしていた青年・真太郎らしい行動に思わず笑ってしまいました。大学で歴史や文学に触れると、当時の世の中に疑問を持つのは当たり前です。のんのんと、大学なんぞに通っていられなかったのかもしれません。卒業をしようと思えば、出来なくはなかったかもしれませんが、「途中退学」と後々の履歴に堂々と書く事は、真太郎にとって密かな意味があったように感じられます。

とは言うものの、当時の世相だと、坊人を次につなげる為に、三木家に婿養子に入った銀治郎の立場を思うと、その驚きたるや如何ほどかと、気の毒になる位です。

2 月に退学届けを出し、直後の3 月真太郎24 才の時に熱田神宮に勤めています。
大学生ではなくなった真太郎は、再び徴兵検査を受け「現役適合ではあるけれど、選ばれる確率が低い」第二乙種に編入されます。

しかし、昭和16 年12 月8 日に真珠湾攻撃があり、1 ヶ月後には軍隊の基礎を学ぶ「教育招集」に約3 ヶ月行き、同年の昭和17 年9 月25才の時に戦争に招集されました。写真(左)は、その間に熱田神宮で撮ったものです。
とても、神職には見えないなぁと思っていたのですが、なるほど新聞記者をめざしていたという事なら、腑に落ちました。

熱田神宮に在籍したまま戦争に行きましたので、真太郎出征後に熱田神宮の事務職として勤めた、後に真太郎の妻となるしげ子は、お給料を家族に送っていたので、名前は知っていたそうです。出会いはもう少し後です。

出征の時に、当時の多賀大社の宮司( 車戸宗功の石碑を建てた金原宮司) から送られた日の丸の国旗も残っていました。「義勇 奉公」と書いています。 軍服と同じ所にガーゼ素材のクシャクシャにたたまれた布があり、赤い色が見えたので血かと思ってヒヤッとしましたが、開けてみると下の国旗でした。とても軽いしコンパクト。もしかしたら、これを戦地で携帯していたのでしょうか。
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​●.進むも死、退くも死

真太郎が入った部隊は滋賀と京都中心の「嵐部隊」つまり、突撃隊として編成されたようです。

昭和17 年(1942 年)10 月末、京都から広島の呉港に行き、船で上海に向けて出港しました。上海で到着した地点を三銀蔵にあった上海の古地図で見てみると、共同租界の日本の会社が多くある地域の倉庫でした。待機して後、揚子江を遡上して安慶に上陸し、更に中隊がある場所に船で移動しています。

11 月末に中隊に合流し、1 ヶ月、機関銃や馬術の訓練をして、12 月23 日大別山作戦の為、対岸望口に上陸します。翌24 日、「初めて銃砲声を聞き、異様な緊張に包まれる」とあります。

二ヶ月前は素人だった事を思うと、いきなり本番はキツイですよね。
その後もかなり遠い各地で戦闘に参加しているので、真太郎の移動距離やどんな行動をしていたのか調べようとしましたが、かなり手間がかかりそうなので、今回は割愛します。

昭和18 年の1 月末~ 9 月までの半年以上は、予測される大戦に備え訓練をしたとあり、その時にマラリアにかかったとわかりました。

この後の最後の戦いとなる芷江作戦では、戦死が695 人、戦傷死が322 人、戦病死が2184 人、合計3201 人の方が亡くなっていますが、約7 割が病死だというのに驚きました。餓死も含まれると思います。そんな中で、マラリアにかかると殆どの方が亡くなったと書いてあるものもあったのですが、真太郎は丁度、基地にいる時だったようで、栄養も看護体制も整っていた環境で早期に治療出来たので助かったのだと思います。

何型のマラリアかにより違うそうですが40 度近い高熱が2 ~ 3 日おきに繰り返し、数年にわたり潜伏する事もあるそうで、戦地から帰ってきて数年たっても、時々、極度に寒がり震えていたのも後遺症だったと思われます。

真太郎が持ち帰った物の中に、日常使う物、貴重品などをコンパクトに身に着けていたとわかる物がありました。その中に「塩基」と書いた袋があり、これがマラリアの薬ではないかと思われます。
この全体の作戦では、兵力10 万人のうち、戦死・負傷が28000 人とある資料にありました。そんな中で、真太郎は生きて帰ってきたという事になります。

<つづく>

次回は、上司から「​進むも死、退くも死」と言われた芷江作戦についてです。
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