もう、これだけで 多賀絵馬通りのお宝です。 更に、見せて頂いたものに 狂喜乱舞しました。 多賀神社御命名 延(上に++) 滋養 名果 柏壽 多賀?大谷保壽堂? 看板の裏表が同じで、吊る為の金具があります。 更に、お菓子の由縁などがありました。 明治のはじめには、多賀の土産のお菓子に寿命餅というのがあり、これは明治屋の神鳥さんが作っておられ、その後東京に移転されたと多賀町史にあったので聞いて見ると、大谷家にどの代かわからないが、神鳥家からご養子に入られた方があるそうで、その明治屋さんは親戚なのだとか。
今のクラブヘヤータガの場所が明治屋さんのお家だったそうです。 母に聞くと、戦時中にそこに東京から疎開されてきた神鳥さんという同級生がいるとの事。少しずつ、つながりますね。 多賀の神鳥家の歴史は古く、お多賀杓子にもかかわる「膳部」という多賀大社にはなくてはならない一族でした。この話は、又 いずれ。 三銀蔵の事を調べていると、色々な事がつながってきて、地域の歴史や文化が詳らかになってきます。探しにいくのではなく、良い意味で気持ち悪い位に、導かれている感じに近く「参ったなぁ出てきてしまった・・・(キャーうれしい)」という感じでしょうか。 最近では、以下の5つ。 もちろん、それとは別に「三銀蔵 Family History 報告書」も進めていますが、全部リンクするので、加筆修正が必要になってきています。
3. 江戸時代の多賀杓子 歴史的大発見! 坊人の子孫としては、世紀の大発見!といえる江戸時代の「多賀杓子」の原型が、なんと上記のもみじ蔵から出てきました。この「多賀杓子」にまつわる面白い話はいっぱいありますので、いづれご紹介します。
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