「第一章 ルーツを探せ! 」1-1 いざ!甲賀へ 05 ●混乱。違うルーツの「岩田さん」? 小佐治・浄善寺の木下和尚の御蔭で、先祖、三木真行のマニアックな場所にあったお墓の位置がわかり、こんな場所にいつもお参り頂いている方がおられるとご紹介頂いたので訪ねました。 このお墓に参って頂いていたのは、同じ小佐治の岩田幹也さんという方でした。 三木家には、現在の所 岩田家につながるルートが2つあります。 <ルート1> まず、真行は岩田秀久の弟で、同郷の三木家存続の為に養子になったとあります。ですので、私の直系のご先祖は岩田秀久につながるルートになります。 <ルート2> 三木家には、真行の他にもう一人、小佐治の岩田家から三木家に養子に来たのが、「三銀蔵」の三木銀治郎です。真行からすると孫娘「さだ」の婿養子になります。 そして、「岩田さん」の登場。これは、ガッツリ 先祖につながるか!と期待したのもつかの間。お参りして頂いていたのは親戚だからではなく、真行の兄、岩田秀久のひ孫にあたる「岩田英磨」と同級生で、第二次世界大戦で特攻隊として亡くなった友である英磨を思っての事だったそうです。 確かにありました。秀麿さんのお墓・・・。 少々頭が混乱していましたが、ありがたい事に、岩田幹也さんは大正8年(1919年)生まれ、当時98才でしたが、先生をされていたそうで、とてもしっかりされていて、秀麿の父の先妻(若くして亡くなられたそうです)が、幹也さんの伯母にあたる事もあり、秀麿を含め、三木真行の兄・秀久の子孫の事がわかってきました。 岩田家は真行の子である淇内一家と共に行動し、多賀へ引越した形跡もありました。 秀久の弟 藤吉(真行) とあり、秀久の二男は 真蔵。 この岩田家があった場所は、真蔵院・真蔵坊と言ったそうです。 後からわかったのですが、この真蔵は 多賀大社叢書(そうしょ)という多賀大社の古文書や関係資料を集めた本などにも、三木真行・淇内親子と共に登場します。 しかしながら、この時点では、真行の生家の岩田家(ルート1)と銀治郎の生家の岩田家(ルート2)が関係があるのかどうかまでは、わかりませんでした。 もし、これからファミリーヒストリーを探そうと思われている方がおられたり、そういう気は自分にはなかったとしても、子孫が先祖を知りたいと思う事があるかもしれません。
先祖探しをする時に、戸籍があるから、いつでも…と高を括ってはいけません。 まず、直系以外は見せてもらえません。(もしくは、かなり面倒な書類がいります)戸籍は血が優先されます。嫁いだ先の先祖、伯父伯母のルートは、難しいです。 昔の戸籍は「家」が単位だったので、兄弟の家族や親族が列挙していますが、今の戸籍は、そんなもん知ってるワイという程度で、江戸時代に生まれた人を探すのは困難です。 ぜひ、昔の手書きの戸籍や メモのような一見 役立たずに思えそうな資料も ぜひ 次の世代に先送りしてあげて下さい。過去帳も亡くなった日しかわかりませんし、生前の名前がわからない事も多いです。 今回、物持ちのよい親戚のおかげで 随分 助けられました。
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内容三銀蔵や多賀大社・坊人について調べた事の報告書を作成中です。その内容をボチボチ順番にUPして行きます。 アーカイブカテゴリ
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