台風がやってくるというので、友人が富士登山を中止しました。 骨折後の腕試し(足試し)が伸びたので、もう少し養生しないという事かもしれません。そこで、思い出したのが、三銀蔵からバラバラに出てきた物から、見えてきた一つの「父と息子」の物語でした。 父・銀次郎・明治22年生れ、息子 真太郎 大正6年生れです。 最初に出てきたのは、登山の時の写真です。昭和8年7月です。 今度は、はがきが出てきました。 それで、あれっ?と気が付き、真太郎の履歴を調べてみると、15歳 彦根中学(現・彦根東高校)の時に心筋炎にかかかり、昭和7年10月から休学をしていたとわかりました。
富士登山は、翌年 昭和8年の7月です。どれ位 休学していたかわかりませんが、息子を富士登山に連れて行き、自信を持たせ、元気になった事を知らせる父親の親心にふれた気がしました。 更に、ただの観光土産だと思い最後まで放置していたものですが、よく見ると 「富士登山」 裏には 「昭和8年7月 父息子二人」と書いていました。 本当に、うれしかったのだと思います。 ちゃっちゃと片付かない! 短冊がいっぱい出てきたので ちっちゃとまとめてしまおうと思ったのですが、いざ 今までの出土品から関連するものをピックアップしはじめたら、思いの他 多い事に気が付きました。欲張らずに少しずつ ご紹介したいと思います。 三銀蔵を片づけ始めた頃は、当家の歴史も知らず「物」として見ていましたが、歴史的な背景がわかってくると、あっちの物とこっちの物が関係していて、何なのかわからなかった物の「答え」が相互に見えてきて、リアルな背景が浮かび上がる事があります。 まず大量の細工した板が出てきました。よく見てみると、そのうちの何枚かには焼印が押しています。 表には、「多賀大社」「竣功祭」とあり、裏には「多賀大社御造営餘材」とあります。 「御造営」というのは昭和八年に完成した昭和の大造営だと思われます。「餘材」というのは余った材木の事です。 紐が通してあり、大きさ形状から、短歌などを書いた短冊を飾る「短冊掛け」だろうと推測出来ました。 すると、違うところから 焼印が出てきて よく見ると「短冊掛け」の焼印でした。 右の丸いものは「御本殿 餘材」とあります。もし、これが押してある木が見つかったら お宝にするぞぉ!と探してみましたが残念ながらありませんでした(笑) これらから推測できる事は、大勢の方々に短歌や俳句、川柳などを書いてもらって、展示したりする事を「坊人(多賀講理事)」が主体的に関わっていたという事です。
多賀大社は、延命長寿で有名な神様ですが、始まりは日本の女帝としては五人目、独身で即位した初めての女性天皇である元正天皇(げんしょうてんのう/六八〇年 - 七四八年)の御病気が治癒したという多賀杓子・飯盛木の伝承に由来します。 自身の努力や人の力でどうしようもない時に必要とするのが「神の存在」であるとするなれば、お多賀さんの森で育った木や、建築に使われた同じ木の小さな一片であったとしても、ご利益にすがりたいと思うのは必然であると思うのですが、昨今、森林保全の為に伐採された多賀の社に育った丸太や枝の行方やその後の活用が如何様にと勿体なく思っていた所に、この「短冊掛け」をみつけ、神と信者をつなぐ役目を坊人が担ってきたのだと知りました。つづく。 今年も、もうすぐ多賀大社の万灯祭です。
又、近江多賀 神あかりのイベントも前夜に行われます。 と、いう事で 以下に各イベントの紹介とリンクと共に 三銀蔵も 勝手にwebコラボという事で 蔵から出てきた あかりや提灯をご紹介したいと思います。 多賀大社のホームページより -------------------------------------------- 多賀大社万灯祭(まんとうさい) 8月3日~5日 8月3日の薄暮、杉坂山(ご祭神降臨の地)で御神火祭が行われ、浄火が古式により切り出されます。麓の調宮(ととのみや)神社を経てご本社に運ばれると、1万灯を超える提灯に明かりが灯されます。 伊邪那岐(いざなぎ) 伊邪那美(いざなみ)の大神様は、数々の尊いご神蹟をあらわされたのち、女神さまは黄泉の国(死後の世界)の大神となられました。万灯祭は私共の祖先の御霊をお護りくださる女神様に感謝を捧げるお祭りで、湖国の夏の風物詩としても有名です。 ---------------------------------------------- 「近江多賀 神あかりキックオフ前夜祭inキャンドルナイト♡」 https://www.facebook.com/ohmitaga.kamiakari/ 神あかりキックオフイベントとして、今年は多賀大社万灯祭の前夜にキャンドルナイトを開催します! みんなで共にキャンドルを灯し、幻想的で素敵な夏の夜を過ごしませんか?町内町外問わず、どなたでもご参加いただけます。カップル、ご家族またはご友人と、ぜひお越しください! ■日時: 8月2日(木) 19:00~21:00 ・15:00~ キャンドル並べ ・18:30~ 点灯 先日、見つかった短歌。Facebookのグループ「古文書読みたーい」で戸川様が、素敵に訳して下さいました。いつも他力本願で申し訳ないので 少しずつ勉強したいと思いますが150才位までかかりそうです(笑)
昔は、英語が話せる人を尊敬していましたが、今は確実に「古文書が読める」方のステータスの方が上になりました(笑) あまりに、奥が深く 教養が必要です。 多賀大社の門前町ならではの短歌でした。 --------------------------------------------------------------- 三木銀治郎ぬしと三木貞子嬢との結婚を祝して ちはやふる神のをしへを妹(いも)と背(せ)が 天(あめ)のみはしら(御柱)めぐりそめけり 神の教えをいただく新郎新婦が、神代のはじめのイザナキ、イザナミの二柱の神のように、天御柱(あめのみはしら)を初めて巡り回るめでたさよ。 ------------------------------------------------------------- 古事記によれば、国造りをなしたイザナキ・イザナミの夫婦神が、めおとの契りのはじめに天御柱を二人でぐるりと巡り、出会って声をかけあって島や神をなしたといわれています。アメノミハシラをめぐりそめる、というのは、晴れて夫婦となった二人を、ナギ・ナミの神になぞらえた寿歌(ほぎうた)。妹背は夫婦という意味。 歌を詠んだ岩田真造(戸籍は真蔵)は、前述の多賀神社全図の編集人であり、両人の父親の従兄で、わが一族の中心人物であり、明治維新後の坊人の活動を知る上で重要な人物で、多賀大社神職となりつつ、坊人の代表の一人として活動し、明治三十年当時の宮司の湊川神社転勤に同伴し、神戸に引越した模様です。 銀次郎と定が結婚したのは大正五年三月、翌六年に真蔵は六五才で亡くなっています。 坊人は、諜報活動もしていたのではと言われており、真造は「倭・山戸(やまと)」という別名もありました。 本日のNHKの西郷どんで 桂小五郎が登場しました。 三銀蔵のある母屋は、今 店舗に貸していますが、幕末の頃は「車戸宗功」という多賀大社の大祢宜の家でした。 そこへ桂小五郎の内命で、越智斧太郎と偽名を使い彦根藩の様子を探りにきたのが、20才の伊藤博文でした。池田屋事件の前です。 三銀蔵からは、車戸宗功がその顛末を書いた冊子も出てきました。 右は、後の伊藤博文直筆のメモです。(三銀蔵にあったわけではありません) その下が 偽名を使って訪れた堀真五郎と伊藤博文を招き入れた座敷です。 手に負えるはずもなく、放置していたものです。 53葉あります。和歌、俳句、短歌、川柳の違いも あやふや。そもそも 短冊の単位もたった今 検索して「葉」だとわかったばかりです。もちろん、ほぼ、読めません。 よく、ここまでやったねと褒めて下さる方もおられますが、本当はずっと先祖に動かされているというより、踊らされてここまできました。うそみたいですが、入れ替わり立ち代わり、先祖が憑くんです(笑) 何せ、祈祷師から始まった家系です。祖母の父は、キツネさんとも仲良しで、亡くし物が見つけられる才能がありました(残念ながら、私にはその血ながれてないみたいですが) 本家の歴史がつながらない、子孫は何も知らないんじゃないか?と気がついたご先祖さんたちは、周到に罠を仕掛けてきました。 今回も、そうでした(笑) 母が19才の時に亡くなった私の祖父が、甥の結婚の時に書いた歌です。
もちろん、私は会った事がありません。昭和22年位に詠んだと思われます。 私自身は、おが屑の上に寝かされるような材木屋の家に生まれていますし、母の話によりますと、母の実家もかなり貧乏だったそうですが、甥の結婚の時に歌を贈るなんて、なんと文化的なこと。 しかし、まぁ、味のある字です。 母の手元には、このようなものは残っていませんので、 いい感じの母の誕生日プレゼントになりました。 忘れないうちに、メモしておきます。 先のブログ 多賀神社全図には、江戸後期の公卿・歌人である正三位権中将 千種有功の歌が書いてありました。 この方の歌は、延命酒など ある時期の多賀大社のあれやこれやに書いてあり、母などはソラで言えて 驚きました。 てっきり、それだと思っていたら 少し違いました。もちろん、私には読めません。 そこで、FBの「古文書読みたーい」というグループに助けを求めると とても素敵な語訳をして下さいました。 そのままですと
---------------------- 千早振 多賀乃 屋し呂能 ミしめ縄 那可幾 よ者ひも か紀天 堂能末武 ---------------------- 読み ---------------------- ちはやぶる たがの やしろの みしめなわ なかき よはひも かきて たのまむ ---------------------- 千早振(ちはやふる)…「神」にかかるまくらことば 千早振る 多賀の社のみしめ縄 長きよはひ(齢)も かきてたのまむ ---------------------- 意味(歌意) 千年もの永久にまします多賀社の、 尊いしめ縄のように長生きできるよう 神様にお願いしましょう。 ---------------------- 素敵な歌ですね。 下の延命酒に書いているのが有名な歌です。 御志め縄 かけて祈らむ いと長き よはひを守る 多賀の社に 同じ時に時に詠まれた感じですね。 ここを蔵を片づけはじめて、何が驚いたかというと、 ・ご先祖は神主ではなく坊さんだった事 ・多賀ではなく、甲賀の小佐治出身だった事 ・「三木」ではなく、血筋としては「岩田」だった事 でした。 (私からは、母方の実家の本家の本家という感じでしょうか) ついこの間まで何の関係もないと見逃していた事が 次々関係があるとわかり、やっと完成まじかになったと思っていた「三銀蔵の報告書」の書き換えや追加を余儀され、この分では当分かかりそうと諦め、ブログやHPに手をつけはじめました。 何かわかった時に 控えておかないと忘れるので メモ代わりでもあります。 明治20年に、この図を編集したのが、ご先祖の岩田家の跡継ぎ 岩田真造(真蔵)です。江戸時代、明治維新前後、多賀大社を仕切っていた「不動院付き」の坊人の惣代 岩田秀久(私からは4代前の真行の兄)の息子で、神仏習合が廃止され、右往左往の後、神主として多賀神社に勤めていましたが、少なくとも室町時代より存在した 多賀参詣曼荼羅 のようなPR用のあれやこれやは やはり坊人(もう、その時は坊人とは言われていません)が 作っていたのだとわかりました。
しかし、国会図書館のデータにある明治22年の同様の多賀神社全図には、編集人などの情報は載っていません。 次のブログに、左上にある 句について 書きたいと思います。 これは、三銀蔵から出てきた古文書です。 古文書なんて言うのは申し訳けない位で、食器を包んだり、コヨリをつくる為に乱雑に保管されていました。 明治なので、曽祖父 淇内の代のものです。 明治維新で神仏分離令が出るまでは、多賀大社を仕切っていた不動院やその配下の観音院、般若院それぞれに所属する坊人が、日本各地の多賀講の方を宿泊所でもあった各坊にご案内して、祈祷や食事、布団などのお世話をしていました。 伊勢へ七度、熊野へ三度、お多賀さまへは月参り と、いう素晴らしい洗脳系コピーライトを流布して、勧誘していました。 しかしながら、毎年、皆さんに起こし頂くのは、金銭的にも時間的にも大変です。そこで、講をつくり、皆で資金を貯蓄して、代表を都度決めて、行けない人の分もお詣りするという代参システムが出来上がりました。 明治38年の左の資料を見ると、三重県志摩の答志島で作られた和具講48人の代参として、4名の方がお多賀さんにお詣り下さった時の収支の一部です。まだ、この頃は、各坊人が担当している講の皆さんの名簿は、門外不出、多賀大社側(神職)では把握出来ませんでした。講の皆さんがいらした時の祈祷も、坊人がしていたみたいです。明治政府が決めた神主の資格はないけれど、講の皆さんにとっては江戸時代より、多賀信仰を導く存在でした。御札を配るだけの仕事ではなかったのでした。 右側は、献立でしょうか。山芋、豆腐等々。こんな事まで、細かく関与していたとは驚きです。ツアーコンダクター以上です。 どうも煮物は、かぎ楼さんに頼んでいたようです。 古文書が読めるようになって、当時の食事が復元できれば、多賀観光も面白くなるのになぁと妄想してしまいました。 何せ、お椀を包んでいた和紙なので半分に切ってあり、日時も不明です。
上の資料を見ると、この時はかめやさんに宿泊して頂いたようで、女中祝儀、饅頭、彦根への電話料、電信料、門前道人力とあります。 電話という事は明治32年以降の書類のようです。少し前の多賀大社の絵図にちょうど門前の通りを行き交う人力車が描いていましたので、何れご紹介したいと思います。 物知りなバーのマスターによると、多賀詣りの後には、彦根の歓楽街だった袋町に寄られる事もあったようで、彦根への電話は、そんな所なのかなぁと思ったりしました。祖父が袋町のきれいなお姉さんと写った写真も、たぶん、多賀講の方をご案内していたからなのかもしれません。 仕事!だったのね。じいちゃん。うたがってゴメン(という事にしておいてあげようっと) やっと、三銀蔵から出して調べていた物の写真を撮って、古文書や資料以外の物を再び三銀蔵に戻しました。これから、目録づくりと蔵に戻した物のナンバリング、タグづけに取り掛かりながら、報告書の完成(現在、B5サイズで250ページ位)を目指します。 先行して、親族や多賀大社、関係者向け概略版の小冊子を作製しました。又、ご紹介したいと思います。 さて、今回は、もしかしたらと妄想していた事が家系図を作ったり、昔の資料と戦うなかで「確信」に変わりつつある事をご紹介したいと思います。 一族のお墓は、知ってる人しか行けないような天台山と言われる小高い山の中にあり(お堂は信長に焼かれたらしいので、戦国時代からいたのかもしれません)ご先祖には「権大僧都 大越家 阿闍梨」という修験僧や山伏にとっての最高の階位がついていました。坊人のルーツは修験僧・山伏だと言えます。
更に、伴侶の出身地をみると隠岐の隠岐氏の娘(私にとってはひいひいばあさん)だったりして、やはり殆どが甲賀忍者と関係が深い家でした。私たちがイメージしている忍者の恰好なんて普段していたら、隠密・諜報活動なんて出来ないので、普段は山伏などの恰好をして・・・と書いているものもありますが、実際に山伏であり、しかも多賀大社の坊人として、大きな顔をして各領地に入り、大名の武運を祈る「牛黄宝印」を敵味方どちらの陣地にも届けられるというスペシャルな役回りだったようです。 甲賀市 薬業の歴史 には、甲賀売薬の起源は、①薬僧から出たとする説、②甲賀忍者の発明とする説の二説が伝えられているとありますが、三銀蔵から出てきた古文書には、薬草の配合などが書かれているものがあり、又、親戚には明治維新以降、売薬業に転身した家もあったり、ある坊人の家からはシュリケンもあったらしいので、二説ではなく『坊人』という職をもう少し深く探れば、今までの仮説のなぞが解ける事もあるのではと感じるようになりました。 例えば、近江から全国に広がったと言えば、木地師と近江商人がいます。どちらも坊人の活躍、その前の多賀信仰の全国展開より新しいのです。 木地師が作っていたルーツの製品の一つに「杓子」があります。多賀杓子は、おたまじゃくしの語源にもなるほど有名な多賀大社のお土産ですが、杓子は元は修験僧が山で修験中に作ったものを持ち帰り配ったのが「お土産」のルーツだと言われていて、道具だけでなく信仰に関係するものとして職能として認定されないと作れなかったそうです。 ひいひいじいさんは、江戸時代、京都の糸へん(近江出身)に勤めてから坊人になっていたり、大叔父は逆に伊藤忠商店に勤めたりしています。伊藤家の男子の跡継ぎがいても、娘に婿養子を迎えるという店の安定・躍進をはかるシステムも、それ以前に坊人の当家でも ガンガン行われていた節がありました。もちろん、全国展開という点でも坊人の方が先輩です。 本日は、ここまでとしますが、近江の歴史を紐とく時に「坊人」という存在を加味すると、又 違った発想が生まれてくるんじゃないかなぁ…と思い始めています。 そう考えると、明智光秀が情報を得やすい多賀(鈴鹿山脈)にいたというのも、まんざらでもない気さえしてしまいます。 |